ぼくの脳内

ぼくの脳内を言語化してみた

思考停止という言葉に思考停止

 どうも数学の試験は好きになれない。

 

 強迫観念があり完璧主義である自分は、いつも試験時間を気にして焦っている。このまま時間が過ぎ去って自分が問題を解くことが出来なければ自分は再試験になり、最悪の場合は留年してしまうのだと。

 

 なぜ自分はこんなにも変なところに、消極的なところに考えが及んでしまうものか。

 

 

 とにかく、今日の数学の試験の出来が最悪だったわけである。

 これについては色々と言いたいことがある。

 

 まずは教師に対して。

 作問に愛がないと感じている。愛のある作問というのは、点が取りやすいというだけでなく、その試験を解く過程で今まで習った知識を総合的に組み合わせることができるように生徒を誘導するようなものでもある。

 と個人的には思っている。

 

 まして、数学を将来あまり使わない分野に進む学生に課す試験は、なおのことそうあるべきなのではないかと思う。

 

 にもかかわらず…だ。

 

 彼は中々に難解な問を作成する。本当にこれが授業で習ったことの応用問題なのだろうか。疑問を呈せざるを得ないものばかりなのである。

 普段扱っている演習問題とのギャップが甚だしいというのも問題であると思う。

 

 さらには、彼はこのクラスに対して嫌悪感を抱いているらしく、試験中もずーっと機嫌が悪そうで、試験終了後には私たちに向かって文句を言いだす始末。

 彼の言い分は理解できるのである。痛いほどに。

 単純に、大学生にもなってクラスがずーっと五月蠅いのである。

 

 私も似たような経験をしたことがある。指揮者として吹奏楽部を指導していた時、私はあまりハキハキとした人間ではないので、中高生の彼らからは舐められ終始五月蠅いのである。

 誰かの前に立って何かを話す。演説者にとっては、聴衆の聞く態度というのが自分が講演を続けるにあたって重要な要素である。

 聴衆の一人一人は、人数に反比例するようにして"聴くことへの責任感"が薄れてしまっているような気がする。だから、なんとなくうるさくなる。

 少なくとも怒られても名指しで言われることはない。

 群衆という盾に守られているのだ。その群衆には自分も含まれているというのが面白い。自分で自分を守っているというわけではないのだが…

 

 まあとにかく、授業をする立場の人間からしても、生徒の態度というのは大事なのだ。五月蠅かったら当然やる気はなくなる。

 だから、生徒も教員に対して配慮するべきなのだと思う。将来、配慮の塊みたいな仕事をしなければならない人間ならそれもあって然るべきだ。

 

 彼の言い分は理解にたる。同情してしまうほどだ。

 

 しかし私のように真面目に受けている人間からすれば、その愚痴を聞かされるのは不愉快だし、試験中のピリついた空気がまた私のメンタルに悪影響を及ぼす。

 

 問題も難しい、先生も怖い。そんな中で自分は問題を解いていたのだ。

 なにがショックって、自分が再試験になりそうなほど悪い出来だったのと、周りの生徒がきちんと解けていたことである。

 

 先生の問題からは愛が感じられないし、実際に怒っているし、周りの生徒は自分とは違って数学ができるという疎外感を感じるし。

 今日は、なんだか人間不信にさせられてしまう、そんな一日だった。

 

 どうして世界は優しくなれないんだろう。

 配慮しない生徒もダメ、怒り散らかす教師もダメ…だとも思う。

 それは自分が正しいときの話だ。

 

 もはや、自分はそれに耐えて生きていく必要があるのかもしれない。

 自分にはやさしさしか取り柄がない。だから、それは生かしたいけれど、優しくないということに耐え抜く力も必要なのだろう。

 それをも包み込む優しさも要る。

 

 なんだかたたき起こされた気がする。ありがとう。

 

 再試験をする代わりにこんな知見を得られるだけ、良いではないか。

 

 あのね、別に再試験したって死ぬわけじゃないんだ。別に笑って生きていればいいのだ。

 他の人と違うからなんだ。他の人と比べて劣っているからなんだ。

 君は君なんだから、その現実は受け止めるしかないし、それ以上もそれ以下もない。

 他の人の目を気にするな。自分の道を行けばいいの。

 

 

 もう一つの気づきは、思考停止して勉強していたことだ。

 受験勉強しているときは、書かないと分からないという意識をもって思考停止せず"なぜ?"をいつも考えていた。

 なのに、受験が終わって大学生になってしばらく試験から離れた生活をしていると、その習慣が薄れてくるのだ。

  

 試験前になってようやく焦りだして、ちょちょっと勉強しだす。その勉強の質がとても悪かったのである。

 理系科目は特に、自分で実際に計算をして答えを出すということが大切になってくるのに、自分はそれを怠った。

 どうして…どうしてなのだろう。自分でもよく分からない。

 でも、いくら勉強しても、全然達成感が無かったのはそれを仄めかしているのだろう。

 

 これもまたいい気づきだ。

 大学の勉強も、受験勉強と重きを置くべき点は同じなんだなと気づかされた。

 受験勉強の意味が少しでもあったのだなと感じる。

 

 大学に入ってから、疲れがあるのか、自分は考えることをやめ、知人と会話していてもただただ聞き手に徹するばかりで自分から何かを発信することが無かった。

 これも思考停止の現れなのだろう。

 自分はなんと味のないつまらない人間なのだろうかと感じていたのは、思考停止の感があったからではなかろうか。

 

 

 さて、まだまだ試験は続くわけだが、現実逃避はこの辺にして今後も考えることを忘れないようにしたい。

 

 考える葦となろう。