早いものでもう24歳になった。
24歳というと、4年制大学をストレートで卒業した人間が就職をして、少しずつ仕事に慣れてきている時期でもある。
要するに社会に出て、自分で稼ぎをして、自分で税金を納め、扶養から外れて一人の人間として生活するということだ。
自分の中ではこれが大人になるということなのではないかと思っている。
大人になる、というと。やれコーヒーが飲めるようになっただの、やれ失恋のほろ苦さを知るだのを俗に指すこともあるだろう。
これもある意味では間違ってはいない。
もう少し大人になることの本質を掘り下げてみると、それは
「誰かに与えられる側(ダラダラ状態)から脱却し、(ストレスを感じつつ)自分の行いに責任を持った上で自分もしくは他者に与える側になる」
ということなのではないかと思う。
今まで甘くて飲みやすい牛乳や、素朴な風味の麦茶や紅茶しか飲めなかった人間が、苦くて好き嫌いの分かれるコーヒーが飲めるようになった。これは、苦みという通常ストレスのかかるであろう苦みを自分から選び、さらにはそれを楽しむという選択をしているということでもある。
自らに新たな選択を与えた瞬間である。これこそ自由を開拓していることになる。自分はここに、生きている実感を見出す。
最近は自分で既製品をアレンジして食す文化も流行っている。これも先に述べたことと同じで、自分で作り出した選択によって新たなものを自らに与えている。
だからよりおいしく感じる。いま、俺は生きてるんだなと感じる。
失恋のほろ苦さも同じ。自らの選択でストレスを感じながらも、フリーになることで新たな選択肢を自らに与えている。このまま一人を貫くもよし、あたらなパートナーを探すもよしである。(しばらくは未練に浸るのかもしれないが)
親から自立することもそう。
親からの期待。親による支配的な言動。あなたのためを思って言ってる。あなたには幸せになってほしい。
そんなものすべて取っ払っていいんだよ。
お前は自分の人生を生きろ。生きるってのは、自分で自分に新しい選択肢をプレゼントすることなんだよ。
もちろん、親に恩を感じるなら、自分の人生を犠牲にしない形で親と関係を持っていこうと思う。
俺が親なら子供にはどうあってほしいだろう。
一刻も早く自立する力を身につけてほしい。
俺のいい子に育てるところまでは俺がやる。けど、学生終わって社会人になったら、もうお前の自由だ。
求めることは
・相手の考え方に染まりすぎず、自分らしく生きること
・心身ともに健康であること
・幸せになること
だな。
正直なところ、自分の子供にはこう生きてほしいとか、こう生きてほしくないとか。の考えは俺にも捨てきれないと思う。
でもそれは自分が育ててきたうえで、本人がとった決断であるから。それが親である自分の期待外れなものだったとしてもそれは育ててきた親の責任でもあると思う。
無論、これは自分の置かれている状況を正当化するための文言でしかない。が、我ながら筋が通っていると思う。
自分が手塩にかけて育ててきた子供なのだから、最期まで自分の思い通りに動いてほしいと思ってしまうのは仕方ないこと。
でもそれが同時に子供の自由を。選択を。自尊心を。そして大人になり、生きることを奪っていることを忘れてはならない。
これは将来、大人になる自分に向けてのメッセージでもある。
自分の幸せは決して子供の幸せとは一致しない。
変化を、想定外を恐れないこと。子供にはいい意味で無関心でいること。
自分は自分、子供は子供。
親が子離れをしなければならないわけだね。
以上。今日ほんの少しだけ大人になれた気がした。
俺もいつまでも親の考えに従っててもしょうがない。
親の主張は親の主張。聞き入れたうえで、最期は自分で行動すれば良い。
良い人生を生きてくれ。自分の力でな。
結構エネルギー使えるし、楽しいと思うよ。
死ぬなよ。絶対に。