ぼくの脳内

ぼくの脳内を言語化してみた

人付き合いにおける私の立ち位置って

 ばたばたしていて文章を書く暇がなかったなと、試験前日でバタバタしうるはずである今、思い起こしている。

 

 最近は別のプラットホームに依存しているから、ここで一人で自分を見つめる機会も少なくなってきた。

 文章力の低下に涙を禁じ得ない。

 YouTubeInstagramによく出てくる短い動画たちに脳を侵食されてしまったようだ。

 

 今日は、人に見せる文章というよりも自分に向けた、いつもよりも冗長的な文章になるのだと感じながら。

 

 そもそもいつもこうして文章を書いているとき、構成をどうしようかとか考えず、頭の中に思っていることをつらつらと書いているのであった。

 

 さて、一つ下の記事にあった彼女云々の話だが、あれは泡と化してしまった。

 ただ向こうが依存気質で、こちらの意思を尊重しているように感じられなかったので、今後付き合いを続けることが危ないと判断し、こちらから別れを告げた。

 

 今年は、おみくじ付きの割りばしを引くたびに恋愛のことについて言及されていたので、懲りもせず恋愛の年になるそうだ。

 

 昨年の気づきをもとに、今年は実ある一年に出来たら。

 

 元カノと言ってしまって良いのか分からないが、彼女曰はく私には偽りの優しさがあるのだそう。

 善人ぶっているということが言いたいようであった。

 

 考えてみれば当然、と思ってしまう。というのも、自分が嫌われないように、多少嫌だと思っていてもそれを肯定してしまっているからだ。

 しかし、当然のことながらそれを彼女にまで適用してはならない。

 将来のことを考えれば、真摯に付き合っていく相手にそのような態度をとることは自分にとっても相手にとっても面白くない。

 

 それならお互い別の道を歩んで幸せになってもらうのが吉。

 

 私はついつい構ってしまう。だから、寂しさを埋めるための道具にされがちなのだということを昨年は学んだ。いわゆるメンヘラホイホイってやつだ。

 もう少し傲慢に、自分を大切に生きなければなと。

 

 そういえば、私は仕事を割り振るのも苦手。結局自分でやってしまった方が早いからとついやってしまうのだ。

 祖母も似たような性格で、関西のおばちゃん気質が遺伝してしまったのかもしれない。

 

 自分にも相手にも配慮することで、相手も自分と相手に配慮するという状態が生まれる。これが最も均衡のとれた丁度良い状態。

 

 こんな理想論を言っていても仕方のないことなのかもしれないが、自分の人付き合いにおける性質が見えてきたような気がする。

 

 とは言いつつも、私もある程度の条件を満たしている相手ならば誰でも良いと思ってしまう節はある…というか、それは当然なのか…?

 世界には無数の人間がいるのだから。誰でも良いという表現が不適切に感じるのは、正式な契約を結んだ後にそれを発言してしまうからだろう。

 

 現実世界では、ネットのように無責任な関係にならないことを祈るばかりだ。

 

 

 話は変わる。最近、どんどんと頭が悪くなってきているような気がする。

 

 睡眠時間が短くなっていること、それに伴う集中力の低下、散漫化が起こっていることもある。

 少しは見直さなければ。

 記憶力、文章力、洞察力の低下…なんとかしたいところだ。

 

 睡眠は一人、集中できないなら音楽をイヤホンで聞いたらいい。

 少しは頭使えよ俺。

 中身のない、情緒、冗長。そんな話は要らない。

 そんなの、自分に何も残らなくなって、依存する先が人間しかいなくなった人間がすることだ。

 熱中できることがあるなら、それ優先しろよ。お前には音楽がある。人じゃない者に依存するのが、健全なのかもしれない。

 

 今年も色々とよろしく頼むよ、わたし。