ぼくの脳内

ぼくの脳内を言語化してみた

心に穴が空いた

 私は今まで、挫折感を味わわないように人生を歩んできたのかもしれない。

 

 医者の息子に生まれたからなんとなく医者になろうとか思ってレールに乗っかって。

 塾にも行かせてもらって、いい大学にも入って。これに感謝してる自分を偉いと思って。

 でも、そんな自分だからこその穴があることに気が付かないフリをしてきた。

 

 大学に入ってから、その穴が私の前で見え隠れしている。穴が最近大きくなってきているような気がするのだ。

 私はただ、受験勉強ができるだけの人間だったのかと。本当にそればかりに時間を費やす。否、受験勉強と現実逃避の繰り返しばかり行ってきたばかりに、大切な教養・自分の意見を言う能力を失ってきているように思うのだ。

 受験勉強を押し付けられてきたと勝手に感じていたからこうなっていたのだろう。レールに乗っかっているからこう感じているのだろう。

 

 今日、自分と大学の生徒間での大きな乖離があることを見せつけられる事態があったのだ。

 英語でdiscussionをするというもので、今回はインフレについての議論を15分行った。

 テーマを初めて見たとき、なぜかそこには冷静になっている自分がいた。焦りを通り越していたからなのか、もう諦めの感情があったからなのかはもう覚えていない。

 自分には教養がないものだとばかり思っていたが、それはその通りであったのだ。

 まずはインフレとは何なのか。物価が上昇することで、経済が停滞してしまうこと。ここまではなんとなくは知っていたが、詳細までは分からない。円高がどうとか、雇用がどうとか。円高円安?こんな問題、医系の話を少し知っているくらいの一般人には分かるはずもなかった。通常は、これくらいは分かるものなのだろうか。分からない。

 もちろん教養が必要とされているのは分かるが、そんなことを言われても自分には大学の課題があるし、いずれなんとかなるだろうと思ってなにもしない、というのがいつものことだ。自主的になにか一つの学問を習得するという人間は尊敬に値する。

 私が尊敬している人間の一人に、同級生の子がいる。その子は、以前に行われた英語のdiscussionの際に、私と同じようなトラウマを抱えたらしいが、私なんかと比べて本当に優秀なのだ。確かに英語は私よりも劣るかもしれないが、それ以上に中身がしっかりしている子なのだ。彼も多分、もっと準備していればトラウマを抱えることはなかったのだろうなと思うと、悲しくなる。私はどこまでいっても無能なのだなと。中身がない、思考停止している人間なのだ。これはシステムに対しての不満だが、topicの準備時間が極端に短いように思う。どうしてこんな…

 

 とにかく、インフレについての議論を英語で交わしたのだ。始まる前からおかしいと思っていた。あれ?何かがおかしい。

 英語だからこそ、日本語よりは内容は適当で良いという自分の中にだけ存在する風潮を勝手に適用しようと思っていたら、全くうまくいかない。

 インフレの原因は何なのか?俺には分からない。分からないなりも、調べたことを話そうと思った。ここで自分の性格上問題が発生する。

 みんなが先に各々喋りだしてしまうのだ。いつもそうだ。自分は残されている。誰かに遠慮している。そこには誰もいないのに。そんな自分は優しいとかなんとか言って結論づけて。

 仕方がないから、人件費の高騰を挙げた。しかしそれも司会風の子に一刀両断される。

 確認したいのだが、人件費の高騰はインフレの原因ではないのか?人件費が高騰すれば、その分会社で割けるお金が少なくなる。ゆえに、経済の回りが鈍くなる。

 これに対して、司会風の子は「人件費が高騰すれば、それはそれで雇われている側の人間が儲かるのだから経済は回るでしょう」と言ってきた。

 その時は圧倒されて何も言えなかったが、必ずしもそうとは言い切れないように思う。人件費というのは会社の予算の中でも大きな値を占めている。およそ40%~60%である。これを会社の経営が使うのか、労働者1人1人が使うのか。どちらが経済を効果的に回すのかなんて分からないだろう。

 まあそれにしても、他の子がどんどん意見を出していくのだ。指をくわえてみていることしかできなかった。 

 

 次に、インフレの解消法について議論した。これもまたみんなが一般論を言うばかりだから、私は残弾の会社ネタをかました。しかしこれも不発…なんかもう泣けてくるよな。

 なんか君は会社の話をしてるんだね(苦笑)と言われました。そうだね、そうなるね。

 まあそれは皆が他のネタを奪っていくからなんですよね、ええ。とか言ってないと自分を保てないような気がした。自分の引き出しの少なさが嫌になった。

 

 とまあこんな具合で終始私がいないかのように、穏やかに議論は進行した。私は多分議論からズレていた。

 

 

 そしてここまで愚痴を書いていて思う。なんと無駄な時間なのだろうと。私はコスパの悪い人間だと。

 ここまで愚痴を書いていても、そこから得た教訓などものの1日で忘れてしまうほど愚かな人間なのだ。

 Twitterを見ていてもそうだ。挫折感を言葉にしている投稿は見られるが、そのアカウントをよく見ているとあまり知性を感じないとか。よくあるのだ。

 一時的にとても感傷的になるが、本当に一時的なものであるなと思うわけだ。

 

 こんなんでいいのか?時折自分に問いかけることがある。

 決まって出てくる答えは、「まあそれでもいいんじゃない?それが君の良いところだよ」

 嗚呼、思考停止なのだろうか。

 

 悔しいと思ったら行動する。それを恥ずかしい・面倒だと思わないことだ。

 まあ、君には多分無理だ。あきらめろ。

 

 

 

 昨日は昨日で、日本語で議論というか雑談する授業があった。大学院生の大人の方とも話したのだが、多分彼は私をただのガキと思っていたのだろう。

 それはどうでもよくて、その授業で得たことがあるのだった。

 

 それは、なんでもかんでも解決策をすぐには考えないことだ。

 エスノグラフィーとか言っていたか。もとは文化人類学民俗学で使われていた調査手法なのだそう。調査と言っても、具体的な数字をとるものではなくて、個人へのインタビューや観察によって定性的に調査するといったものだ。これが最近ではビジネスにも応用されていて、顧客のニーズは何なのかを調べるうえで有効な手段になっているのだそう。

 その手法をするにしても、注意が必要。枠を定めてはならないのだ。実は医療においてもカウンセリングなどはエスノグラフィーと似ている側面があるが、患者を一定の枠に定めてとらえてはならない、だろう?これと同じことを言っているわけだ。患者に寄り添うなら、バイアスを以て見てはならない。逆に、自分にどんなバイアスがかかっているのかを見ることが大切なのだ、という授業の趣旨だった。

 解決策を考えるにしても、自分が解決できることしか解決しないのだ。では、なにが解決できない問題なのか?そこに重要なものが潜んでいるような気がしてならない。

 結論はすぐに出さなくても良い。結論はいらないから、その代わりに何が問題なのかを吟味することが必要。

 

 こんな話をされた直後だったもんだから、今日の英語のdiscussionには学生を含めてとても違和感を覚えたわけだ。

 彼らは意見をとりあえず出して、それっぽい結論を出そうとする。とりあえず、(私以外の)意見は肯定しておいて、邪魔者は無視しておいて、結論を出せば15分はやり切れるだろう。そうとでも考えていたに違いない。

 ええ。確かに、今日は選考試験だったし、それは当然なのだと思う。そもそもまともに議論しようという場ではなかった。それでも私は、自分の意見があまりいいリアクションを得なかったことに対して違和感を覚えているのだ。

 自分が舌足らずだったのかもしれない。英語がへたくそだったのかもしれない。それでもなんとか受け入れてくれるような温かい雰囲気が欲しかった。疎外感を覚えると本当に恐怖を抱く。自分はそれでもいいやという自信は持てなかった。少なくともあの場では。

 

 考えすぎなのだろうか。うむ、確かに昨日の授業で取り扱った文章の筆者も考えすぎだった。

 その子も齢18にして様々な苦悩を抱えており、それが文章に赤裸々に綴られていた。やはり大学生は手に職がないから、アイデンティティーもないわけで悩むのは当然のことだ。悩む原因が、今日の私のように劣等感に思いを馳せることであっても。しかしそれは奨学金目当ての作品であるから、その真偽はどうなのかという議論の方がなぜか活発になったのだが。

 

 筆者は不登校に苦しむ妹のような存在がなくなるようにと、法学部に進んだこともあってスクールローヤーを目指す。違和感として挙げられるのは、その子は妹が救いたいので合って、妹のような存在の人間を本当に救いたいと思っているのかどうかが分からないことだ。

 斜に構えた見方かもしれないが、私はこういう見方が出来たときに生き生きとしている気がする。

 いつも自分は迎合してきているからなのだろうか。本当に情けない人間だ。大切なスキルではあると思うのだけども。

 

 そろそろ、結論に移行しようかと思う。早速自己矛盾しているな。

 今日の英語のdiscussionでは悔しい思いをしたわけだ。自分の教養のなさ、瞬時に他者に迎合する能力、英語力、他者に受け入れられなかった悔しさ。色々なものがあった。

 多分私はこの試験に合格はするだろう。というか、基本的にこの選考で落ちる人間はいないわけだが、今後このメンバーでやっていくのかと思うと先が思いやられる。

 しかしこれは私が下した決断である。将来の教養を身につけたい、英語力もついでに伸ばせるとよい、なんとかしてリーダーシップを獲得してみたい。これを得られるのがこのワークショップであるのだと考えている。

 ここで悔しい思いをしたからこそ、自分の力が伸ばせるとは思わないかね。

 そうとでも思わないとやっていけないよな。無理やりプラスの方向にもっていってまとめる。嗚呼、なんと美しい作品なのだろう。

 

 

 _______私は今、どこへ向かっているのでしょうか。