ぼくの脳内

ぼくの脳内を言語化してみた

インスピレーション

 最首悟 師の講義を受けた。記憶が鮮明なうちに色々書き記しておかねば。

 初めの方は少し難解であるが、途中の私の考察からは普遍的な話になり、易しいので、是非医療のありかたを一緒に考えてみて欲しい。 

 

 大学での学問、例えば数学や物理学は「閉じた世界」。体系的な世界。欧米的な世界とも繋がっているのだそう。

 人間(じんかん)は存在であり、存在が先行し、そのうえで関係性を持つ。人間は独立しているというのだ。だから、人間は責任を取ることが出来る。

 

 彼は、それに対し、「開いた世界」があるという。非体系的な世界。日本的な世界。責任なんてとれやしない。

 人間(にんげん)は関係の上に成り立っている。かれの造語で「二者性」ともいうそうだ。「あなた」がいるから「わたし」があって、幸せになれるという考え方である。

 

 驚くかもしれないが、この世界では、もしも医師と患者がともにそうあるべきだと了承するなら、安楽死も認められるかもしれないのである。

 閉じた世界(欧米)では、人間のいのちは神様から頂いたのだから、簡単に失って良いわけがないと考えられている。そもそも医学は欧米が中心なので、現在はそのような考えが浸透している。

 神様云々の話は置いておくにしても、医師の身になってみれば、患者の命を医師が絶つことは、相当なストレスをもたらすだろう。そして、医療とは単に患者を殺してしまうためにあるわけではない。苦しさを感じながらも、快方へ向かっていくプロセスを手助けするためのものなのだろう。

 こんな綺麗事が言われていて、実際私も賛同する部分はある。というか、ほとんど賛成であるのだが、全てがこれに帰着できるわけではない。それはどんな話でもそうだ。でも、なるべく一般化して人間は生きてきた。それが効率的なのだから。

 私の考えとして、安楽死を認めざるを得ないケースは、必ず出てくると思っている。それを認めるまでには、様々なプロセスを踏まなければならない。本当に患者は死にたいのか。いざ回復したら、そのまま生きて幸せになっていくのではないか。この現実を受け入れるのは時間の問題なのではないか。患者がただパニック状態になっているのではないか。知識がないだけではないのか。…色々なことを考えなければならないし、考える基準だって、もはや客観的と言えるものではない。

 現行では安楽死を実現するのは不可能に近いと思われるが、もしも何らかの基準をクリアし、仮に認められるケースが出てきた場合、私は安楽死の治療を行うべきであると思う。ここまで書いてなんとなく、安楽死は「開いた世界」でならば可能であるという意味が分かってきた。わたし(医師)とあなた(患者)(逆でも良いが)が関係を持つ中で考えたことなのだから。あなたの死は、わたしの死でもあるのだから。(まだここのところはフワっとしていて、私も確信が持てないけど)

 神様云々の話を置いておいたが少し引き戻そう。私はこういう考え方はあまり好きではない。いわゆる神頼みであるが、なんとなく胡散臭く聞こえてしまうのは私だけなのだろうか。ばちが当たってしまうのかもしれない…普段から神様を信仰しているならまだ良いが、そうでない人が、急にこの議論になった時に「神様が~」という話をするのは胡散臭い。とにかく、私はあまり信心深くないので、共感は出来ない。理解は出来るけど。

 話を戻すと、安楽死が認められるケースに遭遇した時、それが患者にとって本当に良いものになるなら、実行すべきだ。患者にも尊厳というものがあるわけである。全く患者が後悔無く亡くなることが出来るなら、私はそれが正解だと思う。

 しかし、心配なのが、亡くなる直前に少しでも「あ…やっぱり死にたくない…」という想いが出てきたときである。

 そしてそうなったとき、それはもちろん時すでに遅しなのである。色々な議論を重ねたとしても、いざ本当に死の淵に立たされた時、人は本能的に心のどこかで「生きたい」と思うかもしれない。私は、ほとんどの人がそう思うと思っている。まあほとんどの人の気持ちを分かった気になるのは良くないか。私は、この人生を幸せだと思っているからそう思っているだけである。

 「生きたい」という直観に、科学的根拠はないと思う。本能という一言で片づけても良いかは分からないけど、それに尽きると思う。

 (ちなみに以前動画で、オランダかどこかの病院で安楽死をする瞬間を見た。薬剤を自分で飲み、亡くなるのだが、衝撃的な映像だった。周りの家族は皆、泣き笑いしていた。人が亡くなるとき特有のあの絶望的な感情である。諦めて笑いが出てしまうのだ。そんな中、患者は本当に安らかにしていた。幸せそうだった。だから、死ぬ直前というのは案外幸せなものなのかもしれない。ただそれは、生きることを諦めたから、なんとなく楽になったからではないかと思う。思考停止して楽になったのかもしれない。しかし、植物と同じで、人間も刺激を受ければ、確かにそれは辛いものであろうが、後々幸せになっていくと思っている。筋トレのようなものだ。死ぬことはいつでもできるけど、この世に愉しみを見出せるのは今だけなのだから。)

 

 結論としては、生命の本能として「生きたい」という欲求が隠れていることを否定できない限り、安楽死を実行することは難しいと思う。それがメリット的に働く人はいるかもしれない。しかし、怖くて出来ない。それが現実だ。そんなリスクを医療は抱えることは出来ない。

 結論をいざ書いてみて思ったのが、「生きたいという欲望を基準に考えるなら、死にたいという欲望を基準に考えても良いのでは?」「死にたいという欲求があるので、安楽死はokですか?」という問いが来た時、どうしよう…ということだ。

 悩ましいところかもしれない。そもそも人間は、「生きたい」と「死にたい」がせめぎあって生きているのだろうか。私としては、ベースには「生きたい」があるのだと思っている。

 さっきも書いた通り、生きたいという意志がなければ、そもそも生命はここまで発展してこなかったはずである。とっとと地球ごと滅亡していたはずである。それは科学的な証拠にもなるのではなかろうか。ここは少し議論がビミョーになるところだろう。生命が発展したことにも、別の理由があるのかもしれないし…

  私は、死にたいという欲望を抱いている人は、少しひねくれてしまっているだけで、死に際には「死」を恐れおののき後悔するのではないかと思っている人間だ。

 もちろん、他の考えを否定してはならないけど。

 

 安楽死のチャプターは一旦終わろう。

 

 人は思考能力を手に入れ、論理的に物事をとらえることが可能になった。そんな時、人は閉じた世界に生きる。でも、人間はロボットではない。0か1の世界で動いているわけではないのだ。

 [0,1]の中で連続的な世界を生きている。だから、そんな時に人は開いた世界に居られる。

 

 人間はこの二つの世界を行き来しているのだろう。

 

 

 障碍者がものの1時間で大量に殺されてしまったという事件は、もう過去の話で終わるわけにはいかない。

 被告は、自分の考えが正しいと思っていて、まっとうな処分を受けることも覚悟していて、正気なのである。

 

 社会的弱者は社会にとって不要なのだろうか。

 はっきり言ってしまえば、Yesにならざるを得ない。非生産的な人間は、この世から去るべきであるという主張には、完全に反対出来ないかもしれない。

 

 かと言って、生きることを辞めるべきあるという意味ではない。

 人は必ずしも社会の中で生きる必要はないからである。

 

 社会の外で、自分なりの世界を開いていけばいい。もちろん、聲も出せない。手足も動かない。という状況の方もいる。自分なりの世界を開くことは出来ないかもしれない…

 いな、それこそが福祉の役割ではなかろうか。現実面を考えると、福祉とはまず経済的負担の少ないものである必要がある。そして、これは何よりも大切なことであるが、愛のあるものでなければならない。二者性を重んじ、「あなた」をリスペクトしながら生きていくべきだ。

 

 現代の医療には、福祉的な面が欠けている。閉じた世界になりすぎている。

 CureとCareとは二項対立的な用語と言われるが、本来は融合すべき物事なのである。

 癒すのは心身なのである。

 もっとも、そんなことが出来るようになるのは、勉学に励むということも大切だが、何よりも「愛」を受けて育っていく必要がある。それは親や保護者の責務である。

 愛を受ければ、今度はその人から同心円状に愛は伝播する。増幅する。逆に、愛を知らないとき、自らが他の人に愛を分けることは出来ない。むしろ逆効果になってしまうかもしれない。

 

 これから医師になるにあたっては、閉じた世界、開いた世界、双方に於いて生きていくことにはなるのだろうが、どちらの世界も大切にしていきたい。

 閉じた世界に居ても、常に開いた世界のことを考えながら生きる。Vice versa.

 具体例は研究医だろう。

 

 今年の面接を思い出す。

 「仁の心はどう研究に生かすのか?」

 と聞かれた。その質問が来るまで、あまり考えたことはなかったが、すぐに答えが浮かんだ。

 その研究が、本当に人間にとって利益をもたらすのだろうかということは常々考えなければならない問題である。利益とは、生命倫理的な観点からももちろん考えられる。

 

 臨床でも同じだ。患者の気持ちの理解に努めるのはもちろんであるが、お勉強にも努めなければならない。疑問を追究していき、そこに愉しみを見出すような人間になりたい。そして、その疑問は必ず解明されるものでなくても良い。というか、ほとんどがそんな問ばかりである。その中にきらめきを見つければそれで良いのかもしれない。

 

 雲の中の煌めきに、栄光あれ。