ぼくの脳内

ぼくの脳内を言語化してみた

愚かなオンリーワン

 物心がつく前、僕は多分母親と同化していて、自分のことを何とも思っていなかっただろう。

 

 しかし、独立して思考が出来るようになった今、いつしか自分は他とは違う唯一無二の存在であるとまで思うようになった。

 

 そんなのはハッタリ。そう思い込ませないとやっていけないのかもしれない。

 

 だって、いくら自分が他よりも崇高な人間だと、ある時根拠なしに悟ったとしても、そんな神話はすぐに、自分の嫉妬によって打ち砕かれるのだから。

 

 そして、自分は周りの人間と大した違いのない、ちっぽけな存在だと知る。

 

 自分はライプニッツでもアルキメデスでもないのだと知り、絶望する。生きている意味がよく分からなくなる。

 

 「代わりはいくらでもいる。」

 

 そうか、なら自分はいなくても大丈夫なのか。

 

 「ちょっと寂しくなるなぁ (まあすぐに忘れるだろうけど)」

 

  じゃあ今死んでやろうか。

 

 そんな度胸はない。そんな自分が嫌になって、また死にたくなる。

 

 

 なんで生きているのか。そんなの知ったことではない。

 

 ただ自然の法則にしたがって、命を授かり、呆然と生きて、いつの間にかこんなことを考えるようになった自分が存在しているというだけのことだ。

 

 人は色々生きる理由を探す。

 

 何にでも意味づけを必要とするのは人間の美点でも汚点でもある。

 

 これは他の動物にはなかったことなのかもしれない。(実は人間と動物の立場は、反転しているのかもしれないという議論は差し置いておこう)

 動物はただ子孫の繁栄という目的のために生きている。人間がいうところの、本能に従っているというやつだ。

 

 人間は思考が出来る。

 

 その道具が、生命に備わっていた生きる意味を改変することだって十分にあり得るわけである。

 

 もっと回りくどく言わないで、はっきり言えば良いのに?

 

 そんなことをしたら、奥ゆかしくないじゃない。日本人の言葉遊びっていうのはそういうことで、ぼかすことでそれを趣深いと思う感性を備えているのだ。

 

 あるいは、自分の教養がいかに養われているのかを誇示するためなのかもしれないが。

 

 

 まあとにかく、人間はいい意味でも悪い意味でも、その思考能力を以て生きている。

 

 その思考ゆえに、自分は、あるのかないのかよく分からない自由意志にしたがって、生きることが出来る。

 

 生殖しないで死んだって良い。

 

 遊び惚けて死んだって良い。

 

 しょうもないブログを書いて死んだって良い。

 

 意味づけを持った自己満足で人生を終えられれば、それで良い。

 

 

 そんなの自分勝手と思うなら、自分は頑張って動物としての役割も果たせば良い。

 

 結局自分一人がどうしようが、世の中の層は微小時間で変わることは無い。

 

  

 こんな思考もできてしまうのだ。人間とは。

 

 それとも、これは自分だけに出来る素晴らしいものなのではないかと疑うこともあるが、それは愚かであると感じる。

 

 そしてそんな自分をまた崇高だと思っている自分もどこかにいるのだろう。

 

 みんなみんなそんなもんなのだろう。

 

 

 なんか、自分がオンリーワンじゃないとか、いちいちこんなことで絶望するのが阿保らしくなってくるわけ。

 

 そう、結局憂鬱になっても、すぐに忘れちゃえば良いんだよ。

 

 憂鬱のポイ捨ては良いことだ。

 

 どこに捨てても、必ずそれをリサイクルして、幸せに変えてくれる人はいる。

 

 だから、その時のほんわかした感情を大切に生きていくのも、一つの生きる意味なのかもしれない。

 

 

 ブラつく門には福来る。 

 

 怠惰な精神で生きるのも悪くないようだ。