ぼくの脳内

ぼくの脳内を言語化してみた

経過報告

 最近は、大学生活で疲弊しながらも現実逃避からか、それとも友人に触発されたからなのか、はたまた本を読んでいる自分に酔いしれたいのか、他の人に構ってほしいのかなのか分からないが、「アルジャーノンに花束を」という小説を読んでいる。

 

 まだ全部どころか、半分も読み終わっていないので何ともいえないが、話の趣旨としては知的障害を持つ主人公が、特殊な治療によって徐々に知能を上昇させ、見える景色が変わってくる。その様子が小説の中で、本人がほぼ毎日記した経過報告の中で記されているのだ。

 

 これにインスピレーションを受けたのか、自分もある種似たようなことをやってみても良いのではないかと考え始めた。自分もまだまだ知能は発展途上で、自分の考え方やモノの見方というのが少しずつでも変わっていく様をここに記録できたら面白いのではないかとふと思い立っただけである。

 もともと内省的な自分であるが、それと深い思考が出来ることとはまた別なのである。最近始めたHSLPというプログラムに少し影響を受け、なんとか深い思考、批判的思考をしてみようと思いつつある。それが少しでもこれからの文章に反映出来たらよいなと。

 

 さて、今回書くことは特にまとまりのないことの連続になるだろう。ふと思ったこと、自分の悩みの種になっていること、楽しいこと、なんでも書いていこう。

 

 まずは、自分が爽快感・達成感を覚える瞬間というのを書いてみたい。ズバり、最近の生活を踏まえて言うならば、HSLPなどのchallengingな授業や課題を終えた後であろう。HSLPというのは、ネットでも調べれば出てくるとは思うが、うちの大学で行われている健康科学分野でのリーダーシップを養成するプログラムのことである。

 授業はすべて英語で執り行われ、ヘルスケア政策に関わる倫理的・経済的・政治的問題についても触れる。

 高校まで多少なりとも英語に得意な意識を持っていた自分が恥ずかしいくらい、周りのレベルが高い。これは以前の記録でも記した通りだ。一番に感じるのは、語彙の差であろうけれど。

 そして、よくよく帰国子女の喋っている英語を聞いてみると、30%くらいは情報として不要なのだ。It's gonna be a little confusing, but~みたいな具合で。内容を日本語に訳してみると、普段から我々が話し合っているようなことの範疇にあることが分かる。

 前々から感じていたことではあるが、英語で話すときになんとなくIQが低くなっているのではないかと。それは確かにその通り。だって、語彙が限られているのだから話せる内容についても幼稚園児レベルのものになってしまうだろうから。

 でも、意外にそのレベルが低すぎるということもないのだ。英語で話しているようなことを、いざ日本語で話し合おうとしても、あまりその内容が変わらないなんてことはよくある。

 要は何が言いたいのか、いやそもそも要は~なんて言ってまとめる必要はないのかもしれない。結論は出すべきではないという教えを守るなら。

 まあとにかく、今は英語で話すということで精一杯で、論理的にものを考えることが難しくなっているように思うのだ。だから、言語関係なくlogicalに考えられるようになりたいと思う。それを英語に起こせばよいだけ…なのだがね。

 

 本当は別のことを書こうと思っていたのだが、彼女づきあいの話が急に脳裏をよぎってしまったので書いておこう。なるべく思ったことをそのままに書いていこうと思う。

 そう、最近高校時代の友達に会う機会が増えた。今までも、会おうと思えば会えたのだが、自分が過剰にコロナウイルスに罹患することを恐れていたために、それを控えていたのだ。しかし、最近罹患したため、現在は抗体がそれなりにあるだろうとたかをくくって、不要不急の外出をしているというわけだ。まあなんと安直な話なのだろうとは思う。そろそろシャドーイングがあるので、控えなければならないようだね。

 まあそんなことはどうでもよくて、その高校の友達にやたらと彼女が出来ているのだ。しかも彼らは俺と同じ浪人していた人間で、大学に入ってからもたったの半年しか経っていないのにも関わらずだ。

 

 彼らに共通するのは、性格面においてどこかしらの難があるということだ。とても失礼なことを言っている自覚しかない。というか、これまでの人生で自分の求める理想的な性格の人間に巡り合ったことはない。

 

 いや、そもそも自分にとっての理想の性格とは何なのだろうか。

 最近彼女を作ろうと思えば作れると言っている彼のように、論理的に考えることを非常に得意としていて本当に頭が良いと思える一方で、プライドは高いけど優しさもある、けど結局何を考えているのか全く分からない人間は理想的なのでしょうか。

 それとも、大学の同級生の彼のように、一見物静かで人間づきあいが苦手そうな彼だが、いざ接してみるとユーモアがあって優しいし頭も良い、そんな人間が理想的なのだろうか。

 はたまた、私のように、真面目そうでさらにはコミュニケーションがかなり上手く人当たりの良いいわゆる優しい人間が理想的なのだろうか。

 多分だけど、自分にとっての理想は自分の性格に近い人。でも、理想的な性格の人間を好きになるかどうかは分からない。

 自分と同じタイプの人間なら、自分と思考回路も似ているし、自分がしたことに対するリアクションも想定できるからこそ余計に気を遣ってしまうような気がしてしまうのだ。

 根本が似ていて、(例えば真面目であることとか)そこからの方向性が少し異なる人間同士の方が結局はお互いにない部分を補完しあう形で、お互いに仲良くなれるのではないかと思う。

 話は逸れたが、とにかく彼らには彼女がいて、自分はなんだか遅れをとっているように見えるなぁと思い始めている。どうしてだろうか。

 彼女の必要性を徐々に感じ始めてきている。それは将来のためである。結婚を見据えての話だ。まさか自分がこんなことを言い出すとは思ってもいなかった。

 結婚を本当にしたいのだろうか。その目的は?どういう人生を送りたいのか?そんなの今は分かるわけがない。

 でも、性欲という本能的な要因と、寂しさに耐えられないというこれもまた本能的な要因なのか感情的なものなのか分からないが、それが結婚という形で結びつくのかもしれない。

 結婚をするにしても、自分にとって良いと思える女性を探す必要がある。見極める力をつけるために、女性についてのある程度の知見が必要なわけで、そのために彼女というものを作ることによって共に過ごす時間を増やし、知っていこうというわけである。

 だから自分は遅れをとっていて、劣等感を多少は感じている、、、ということになるのかもしれない。

 

 かもしれないというのは、本当のところよく分かっていないからだ。自分には恋愛以外にもしなければならないことはたくさんある、と思っている。

 今、恋愛なんかにかまけて大切なことを失っていも良いのかと思っている自分がいる。

 でもそんな思考も、厳しい視点で考えれば、恋愛に割く時間など彼女がいてもそんなに多くはないのだから彼女は作ってしまえばよいではないかということになる。だから、作れるなら作ればいいじゃないか。彼女を作らない言い訳をする必要など全くないように思われる。

 いざこう書いてみるととても悔しいななんだか。でも、こういう覚醒した思考は必要だ。

 とにかくこれについては、日々自分を磨いて頑張ろう。

 

 さて、今どうしてこんなにとめどなく文章がかけているのだろう。

 それはおそらく、興奮状態にあるから。HSLPを終えてね。

 こういうのを終えると、何がかかってきても問題ないように錯覚する。どんなチャレンジでも乗り越えられるのではないかと。でもそれは本当に錯覚で、タスクが終了したことによる喜びで興奮してるだけなのだ。

 でも、とにかく自信がつくのは確かだ。こういう場に限らない。自分が何が出来るとき。例えばJazz研究会にいるときなんかは、自分は出来る方なのでそれなりに偉そうにリラックスして楽しむことが出来る。演奏も自分の力を効率よく覚醒させながら出来ているような気がしている。

 そういう自信こそが、自分を委縮させて発揮できる能力を限界まで絞り出す大きな原因になっているように思う。

 それが養えれば良いが、それは英語力がつき次第になるだろうから、まずは単語帳をやりましょうというのが一つ導き出される結論になるんだろうね。

 

 えー、あとは話が変わってタスクのことかな。

 自分は何かをやろうとするときに、すぐにリスクを考えてしまう。例えば、何か一つの課題をやろうとしても、他のやらなければならない課題のことを考えてしまって辛くなり、結局どちらにも取り組むことなく現実逃避を始めてしまうか。

 あるいは、自分がやると決めた課題が終わるまで他の課題に着手したくないなどの気持ちもある。

 これはなるべく変えた方が良い。効率化するためにだ。

 カレンダーやメモにやるべきことをリスト化することしか私にはできない。が、これはとても有用である。浪人時代はやることが決まっていたからラクだった。でも今は違う。一週間たてば、全く違うことをしているのだ。

 

 今日の自己分析はこんなところだろうか。最近は取れるところではなるべくリーダーシップをとっていこうと思っているので、とにかくアクティブにね。

 小学生自体の、昔の自分のように戻れるか。

 

 できるさ、きっと。