自己分析
大学に入って、環境が大きく変わった。
今までの浪人生活は、もちろん所属が定まらないフラフラした状態ではあったが、人間関係やアクティブラーニングをすることを気にすることなしに、閉鎖的な受験勉強を楽しんでいるいわば気楽な生活だったのかもしれない。
ようは、大学に入ってからはComfort Zoneからの脱却を図らなければならないのである。
「自分は人と接するのが好きだ」なんて歌ってはいたが、それも蓋を開けてみれば半分は嘘なのだと分かる。
自分は消極的なコミュニケーションが好きなわけだ。自分から話しかけに行くようなことはしない。誰かから話しかけられる、あるいは授業で強制的に話さなければならない状態にならないと口を開くことはない。
もっと厳密にいうと、積極的コミュニケーションをする場合もないわけではない。入学後早い時期がそうだった。自分と同じ空気を感じる人、つまり内気そうで芋っぽい人を探して話しかけていたのである。
よくよく考えてみれば、自分の友達なんてみんなそうなのではないかとも思えてきた。まず、自分よりも見た目がカッコイイ人とは友達にはなっていないような気がしている。そしてカリスマ系の人とも付き合っていない。
自分は友達を作るときに、無意識のうちに「なんらかの領域において自分を超えることはしない人」を選別していたのかもしれない。なんとまあ欲深い人間なのだろう。これもまた防衛機制の一つなのかもしれない。いざというときに自分よりも下の人間がいると、どことなく安心するだろう?
こんなやつが医師になれる気がしない。汚い人間だなと痛感する。
勉学においてもそうだ。
もともと自分は内気な性格である。どうしてそうなったのか。失敗を恐れてきたから、挑戦をしてきてそれに対して良い印象がなかった。あったにしても、失敗の恐怖の方が大きかった。親からの制限があって、やりたいこともあまりできなかった。親の想定内でしか生きてこられなかった。などなど様々あるのだろう。
内気なことは人の所為にしたって仕方ない。所為にしたとて、なんの生産性もないからである。それで自分が救われるのか?内気で悩んでいる自分からは少なくとも解放されまい。
これからの時代、アクティブラーニングつまり積極的な学習が求められている。
どうして求められているのかは正直分からない。グローバル化が起こってきているのはまだ分かる。人間が豊かになるためには、国際的に協力をして何かを開発したり考えなければならない。また異文化を理解することにより新たな価値観を知り、それを普段の生活に生かすこともできるかもしれない。戦争すらもなくなるかもしれない。
そのためにアクティブラーニングが必要だという点がひとつあるのだろうか。
もうひとつは、自分の殻それこそcomfort zoneに籠っていないで他の人の意見を聞いたり自己主張をしたりすることでより自分を磨き上げるためというのもあるのかもしれない。
ただ、これを全員に適用する必要があるのかどうかは分からない。
十人十色で、こもりがちな人がいたっていいはずなのだ。
Activeにいるということは、それなりの問題が発生する。
自分が何なのか分からなくなったり、人間関係のトラブルも生まれかねない。
まあそんなことを言ったって、結論はどうせ「できるうちにできることをやっておこう。そのためには今のうちから積極的になんでもやってみようよ!」という感じになるのだろうが。ほどほどが大切なのである。急にいろいろやっても仕方ないので、まずは少しずつ。初めの一歩は難しいけれど、今のうちに勇気を持ちたいところだ。
そもそも今このブログを書いているということは、一定の心のもやもやがあるからであって、それを消化するためにカタカタしているのだ。
箇条書きするかね。
・なんかみんな仲良くなって遊びにいってるのがすごい…自分だけなんか取り残されてるような気がしてならないのが不安なのだ。
・部活でもあんまり活躍できないから、内気になるわ苦笑いするわで馴染めるかが不安。
・みんなが遊んだりしている中で、自分が何かしているのかと言えばそうでもない。自分への不甲斐なさが大きい。いろいろ損をしているような気がする。要領が良いというのは、それだけ様々な経験を積める時間があるということだ。
それなのに自分は、必要最低限のノルマを達成させればいいと思っている。なのにそれをギリギリまで伸ばす。結局何もしていないのだ。
そうか、自分が面白い話が出来ないのは、そういう経験をしてこなかったからだ。興奮するような経験。自分で何かを成し遂げたという自信。全くないね。
過去の経験も少ないし、それにすがっていたって面白くない。
いったん自分をリセットしてみようではないか。君には何もないのだと。何もないからなんでも始められるということで。
せいぜい頑張れ。