ぼくの脳内

ぼくの脳内を言語化してみた

やっぱコミュ障は文章で語る

 入試休み最終日。ろくに休めなかったこの3日間だったなぁ、、と回想しながら、大学病院の待合椅子に腰かける。ディズニーとかと一緒で、待ち時間がサービスとしての対価でない類のスポットだ。
 聴力検査を終えた後、さんざん待った挙句、診察室で言われた言葉は

 

 ———それじゃあ、お薬処方しときますね。何か質問とかありますか?

 

 ———ゑ。

 

 それだけかぁー。しかし、冷静に考えると、それだけじゃないほうがおかしい。今までこういう世界には疎かったためか、その光景は新鮮でもあり、錆びれそうでもあったのでした。
 一番待ったのは、会計だ。整理券を持って、順番を待つ。1分で2人が会計所で裁かれていく。俺が裁かれるまで、残りはあと200人。あと2時間・・・。そんな時間、こんな老人だらけの空間で待っていられるはずがあろうか。
 帰りの電車の中では、疲れがどっと襲ってきた。なんにせよ、ただの診察で4時間も病院に収容されていたのだから。

 

 坂口安吾という小説家を初めて知った。一度読んだら忘れられないようなあの残酷さ。人間の愚かさを訴えてくる。

 

 ———それについて考察せよ。

 

 なんて言われたら、どうするだろうか。そう、俺は実際に言われてしまったのだ。文学作品は、音楽と同じで、表現を正確な言葉で語ることは不可能であると思う。
 結局、作品というのは、客が理解することで初めて「作品」として成立するのではないかと思う。作者から客へ想いが伝わる。それが客の勝手な解釈だったとしても。客にとっては、それこそが作者が作った(本当は客が作った)「作品」なのだ。

 だから、小説について考察して言葉にして、他の生徒と意見を交換したって、それはただの価値観のドッジボール
 ドッジボールプレイヤー双方に於いて、寛容であることが強く求められる。すなわち、キャッチボールへと移行することだ。が、誇り高き本校生徒は、意外とそういうことをしたがらない。とにかく、自分の意見が絶対的であるかのように、相手を論破しにかかる。これではただのディベート大会ではないか。

 俺は、そういう価値観の押し付け合いが大嫌いだ。俺は、他人の価値観を受け入れ、理解することが一番大事であると考えて生きている。大事な大事な価値観を潰すのは、多様性を欠くことになる。

 ———自己言及のパラドクス

 

 ふと言葉が浮かんだ。今、俺がこういう主張をすることで、価値観を押し付けるという価値観を潰そうとしているのだ。

 俺自身も価値観を潰すことをしようとしている。あーあ。ブーメラン炸裂しちゃった。
 でも、これは不特定多数に向けた文章だから、実はブーメランでもないかもしれないと願うばかり(笑)

 こんな現実逃避をしていても、時間君はいつかどうにかしてくれる。俺を強制的に動かして、レジュメを書かせてくれるのだ。そして、すらすらと文章を書かせてくれるのだ。
 そして、発表当日も学校に連れて行ってくれて、面倒な質問にも答えさせてくれるのだ。

 だから、俺は時間君の力が働くまでは動かないことにする。
 すべては時間君の手の中にあることも知らずに。