ぼくの脳内

ぼくの脳内を言語化してみた

勉強する意味なんて

 子供の頃から、陽気で、ムードメーカーだった彼。俺とは、すっかり腐れ縁だ。少し、彼の人生を覗いてみよう。

 

 彼は、幼稚園の頃から「塾」というところに「行かされ」、色々な教育を受け、いつの間にかっ私立の小学校に入学。


 そして、また知らぬ間に、「塾」に「行かされ」、中学校を受験。そして、私立の中学校へ入学。


 中学受験時代、この拘束された生活に疑問を覚え、母親に「何故俺は受験をしなければならないの」と問うたこともあった。そして、その後叱責されたこともあった。本当に意味が分からなかったけど、彼はそれを受け入れるに他なかった。

 そして、今。「塾」に「行き」、大学受験生活を送っているのだそう。彼は今でも、勉強の意味なんて分かっちゃいない。

 

 「何故、自分は大学受験をしなければならなくて、こんな塾に行っているのか」

 

 でも、彼は今、塾に「行って」「勉強して」いる。洗脳という奴なんだろうか。まあ、そうなんだろう。今までは、親の敷いたレールの上で暮らしてきた。彼には、、勉強するというターミナルしか残されていないのだろうか。

 

 俺の父親にそのことを聞いてみた。すると、らしい答えが返ってきた。

 「勉強する意味は、勉強しながら考えるもんだよ。いつまでも考えてたら、勉強する気力なくなるよ(笑)」

 

 父からすれば、大学受験なんてもうちっぽけなものなのだ。そう、考えてみれば、高校生の間に、何になりたいとか、何のために勉強するとか、分かるわけが無いのだ。社会に入っても居ないやつに、社会が分かるわけが無い。

 それどころか、今の大人ですらも、その明確な答えなんて持ってないんだ。

 しかし、「勉強する意味」の追究から目を背け、いざ将来の夢を考えると、少し勉学に励もうとする気持ちが高まる気がしないか。俺は少なくとも、その気持ちがあった。俺が働いている姿を想像して、社会に貢献している姿を想像して、陶酔するのだ。「俺の生きる意味は、ここで見いだせたらいいな。」と。(たいていの人は、「大義」を求めているということが前提での論理展開だ。人は誰かのために生き、誰かのために死ぬのを望む。)

 将来何になりたいなんて、極論を言えばただの思いつきで決まってしまうものだ。「あの日、あの人に会っていなければ、俺の人生はすっかり変わっていただろう。」なんて言葉、良く聞くけれど、本当にその通りなんだろう。結局、人生は偶然。必然と思っている物は偶然なわけだ。

 だから、長いこと考えずに、一旦「運命」と受け止めて潔く決断することも、時には重要なのだ。

 高校生のうちは、取り敢えず妥当性のある目標を定め、それに向かって努力をしていれば良い。その目標の正誤は、大学又はその他の職場などで明らかになるだろう。

 もしそれが仮に間違っていたとしても、遅すぎやしない。その時はその時で、また新しい道を見つけるしかないのだ。それを繰り返す人生を送る人なんて、あんまりいないかもしれないが、それもまた「運命」なのであろう。
 それを「運命」という一言で、笑って済ませられる人も、意外と強い人間なのかもしれない。

 時間は有限なんだから、勉強する意味を考えている時間も、勿体ないということだ。勿論ちょっとやそっと考えることは良いが、深く突き詰めると、ただの哲学家になってしまう。その人生を望むのも一つの道ではあるだろうが・・・。

 勉強は何のためにするのか。自分の考える一つの答えは結局、「自分のため」なんだろう。勉強して、社会に入った結果、自分の得意不得意を理解する。それが自然の摂理ではないか。
 大学受験の勉強はあくまで、「教養」。そこで、ものの考え方など、社会に入るうえでの知識などを詰め込むのだ。
 これは、赤ちゃんが箸の持ち方を強制的に詰め込まれるのと同じだろう。それが無かったら食べていけない。

 人は社会から独立して生きていくことなんて出来ないのだ。まさに、人の仕事は、誰かの仕事で出来ている。

 

 彼に教えてあげたい。勉強は、結局自分のためにするということを。人生を過ごしているある時に、勉強した意味があったのかどうか分かる。意味が無かったという答えが出ても、それを見つけたことが素晴らしいことなのだ。

 だから、今は取り敢えず、未知なる道を走り抜けろ。それが怖いなら、少しばかりの幻想を抱いて走っても良いと思うよ。

 その幻想が現実になるかは分からないけれど、いつか道は必ず開ける。
 それまでは──