ぼくの脳内

ぼくの脳内を言語化してみた

総決算

 年末をこんなにもゆったりと、平穏に過ごすのは2年ぶりだ。

 

 最近なぜか悪夢をよく見るのだが、それはここ2年間の受験生活のストレスのピーク時と重なっていたからだろうか。

 今日見た夢は、なぜか共通テストを受けさせられるというものであった。地理など全く記憶にないのに、前日からどのように逆転すればよいのか分からず絶望していた。

 

 悪夢を見る原因には、受験生活がフラッシュバックしたこともあるだろう。だがそれに加えて、冬休み明けのことを考えて若干の鬱状態になっていることも否めない。

 というのも、夏休みなんかは期間が長くあまり先のことは考える必要がなかった。しかし、大学生の冬休みというのは短く、さらには少しばかりの宿題も課されているのだ。休みと言っても、完璧主義の自分にとっては課題に縛られてしまうのだ。だからしんどい。

 日を追うごとに、父親とともに、三が日までしか休めないことへの傷を舐めあっている。ようやく社会人の気持ちが分かってきた。

 

 

 さて、しばらく記憶を書きとどめることが出来なかったので、ここで一旦一年の総決算として記しておきたい。

 

 今年は自分にとってどんな年だっただろう。そもそもなぜ一年を振り返ることが大切なのだろうか。アーティストの中には、あえて過去を振り返らずに新たな音楽を作り出すものもいる。その方が以前の記憶に縛られることなく、自由気ままに生活できるかもしれない。

 しかし、振り返ることにも価値はある。自分が生きていたことを実感することもそうだし、自分が何を感じて学んだのかを言語化することで、自分の得たものをより鮮明にしていけるからだ。さらにそれを今後にどのように生かしていくのかを考えることが出来る。

 多くの哲学者が述べているように、人間はつまるところhappinessを目的に生きている。我々の数多くの行動は、結局は自己の幸せへとつながっていく。

 これもそんな今後の幸せにつながっていくと信じて書いていこうというわけだ。

 

 さて、これを踏まえたうえで2022年は自分にとってどんな年だったのか。

 ざっくり言えば、「閉じた学問から開いたまなびへの変化」だろうか。

 相変わらずかっこつけた表現がお好きなお年頃なのだが、要は受験勉強が終わって大学生活がスタートしたことによって、勉強内容ががらっと変化したということだ。

 

 受験生時代は、授業をただただ聴いては自分の中で反芻して学習していく。その過程に他者は介入していない。自分の要領のよさを試す期間だった。

 そんな生活が大学生になってから劇的に変化した。他者とのコミュニケーションの機会が増えた。お互いから学ぶ機会が増えたのだ。

 それはグループワークの増加や、自分の意見を積極的に発信する機会の増加にみられる。そこで、様々な背景の人間の考え方を感じ取り、共感したりcounter argueするのだ。

 受験生活では考えられない。もちろん、多くの理系科目は受験生活的な要素が大きい。体系化されている学問をある意味で機械的に解いていく。うちの学生は得意な学生が多いのだろうが…これも大切な要素だ。研究者になるためにも必要。自分の中でじっくりと考える力だから。

 対極的といっていいのかは分からないが、倫理的な問題などは体系化されていないものだ。それについて議論を交わすという授業はとても自分にとって刺激的である。

 

 ただし、積極的に意見を発信することが苦手な学生がとても多いように思う。

 場の空気感が凍っている場合がほとんどで、いざ話始めると大丈夫なのだ。でもそれまでがとても大変。どのようにice breakするのか。短時間だったらなおさらしんどい。

 その背景には、自我を持ってしまった大学生というのが大きく影響している。他者からの印象は無難なものにしておきたいのが物心ついた人間の心理だろう。だから何も余計なことを言わないのがラクなのだ。しかも、何かをはじめに発言した暁には、自分がリーダー格にされてしまう。さらには、全員に向けて発言させられてしまうかもしれない。

 なんとなーく私は嫌だなと思ってしまう。というのは、誰かから指摘されてしまったときにとても困るからだ。返答できなかったらどうしようとか考えてしまうのだ。

 返答できなかったら、そこまで知能が至らない人間だと恥ずかしい思いをしてしまう。

 要は、自分という存在が劣っているとか、考え方が否定されてしまうのが嫌なのだ。まとめるとね。

 

 自己というのは、常に安定していたいものだ。そこから進んで抜け出そうとする人間は中々いない。

 それでも、抜け出している人間がいる。この大学にはそんなヤツが多くいる。本当に憧れてしまう。

 しかし、私はそんな彼らには何か他に自分の中で大きな軸があるのではないかと踏んでいる。

 例えば、自分はとても英語が出来るとか、何か他のスキルで秀でているとしよう。その場合、普段の学習面で何かを否定されたとしても、自分にはその秀でているスキルがあるので、困ったらそこに逃げ込めばよいわけだ。

 倫理的な意見が不適切でボコボコにされたとしても、自分はとてもトランペットが出来るので、そちらに逃げればokという具合に。

 自分はその方面においては価値がある人間だから、まあ大丈夫だろうと思うわけである。

 仮説にすぎないが、なんとなくそんな気がしている。でも、そのスキルを身につけるためには辛い思いをしなければならない。彼らもそのスキルで秀でているにしても、もちろん世界一であるわけがない。でも、この共同体においては秀でているというわけだ。

 だったら、もうとっとと他の共同体に逃げてしまえばよいのではないか?と思ってしまう。でもそれは甘えかもしれない。というか、まだ20代なんだからボコボコにされっぱなしでもいいと思う。

 もっと大人になってからボコボコにされるのはなんだかかっこ悪いから。別にそれでも良いんだけど、一般的に年上の人間は経験をたくさん積んでいるから頼りになるという考え方が通っている。そんな人間がボコボコにされていたら、なんだか情けない。だったら、元気な若者の方が価値があるように感じられてしまう。

 

 そう、ここまででキーワードが価値とかアイデンティティだと分かる。これは人間が普遍的に求めるものだと思う。それが他者への働きかけとして現れるのが、承認欲求だったりするのかもしれない。

 

 結局愚痴ってないで、邁進しなさいということになるのだろうな…

 多分多くの努力家は、ボコボコにされて育つ。そして、他のランクが下がった共同体へと移り活躍していく…のかもしれない。

 いや、分からない。そこからさらに成長して活躍する可能性もあるか。俺はそんな気が全くしていないのだが。

 

 はい、結論へと移ります。

 なんだか文章が目的・背景から始まって本論結論という流れになるのが、とても論文っぽくて好きだなと思った。そういう論理的な考え方も、大学に入ったから少しずつ伸びていったような気がする。

 

 えーと、とにかく自分が価値ある人間になるために、今はつらい思いをしてでも他者と意見を交わしたり、自分を否定されたりして鍛えていきましょうということになりますね。

 全く面白くない結論。でもこれが出来ない人間はたくさんいる。もはやする必要がないという人間もいるだろう。

 だけど、頑張ろう。幸せのために。

経過報告

 最近は、大学生活で疲弊しながらも現実逃避からか、それとも友人に触発されたからなのか、はたまた本を読んでいる自分に酔いしれたいのか、他の人に構ってほしいのかなのか分からないが、「アルジャーノンに花束を」という小説を読んでいる。

 

 まだ全部どころか、半分も読み終わっていないので何ともいえないが、話の趣旨としては知的障害を持つ主人公が、特殊な治療によって徐々に知能を上昇させ、見える景色が変わってくる。その様子が小説の中で、本人がほぼ毎日記した経過報告の中で記されているのだ。

 

 これにインスピレーションを受けたのか、自分もある種似たようなことをやってみても良いのではないかと考え始めた。自分もまだまだ知能は発展途上で、自分の考え方やモノの見方というのが少しずつでも変わっていく様をここに記録できたら面白いのではないかとふと思い立っただけである。

 もともと内省的な自分であるが、それと深い思考が出来ることとはまた別なのである。最近始めたHSLPというプログラムに少し影響を受け、なんとか深い思考、批判的思考をしてみようと思いつつある。それが少しでもこれからの文章に反映出来たらよいなと。

 

 さて、今回書くことは特にまとまりのないことの連続になるだろう。ふと思ったこと、自分の悩みの種になっていること、楽しいこと、なんでも書いていこう。

 

 まずは、自分が爽快感・達成感を覚える瞬間というのを書いてみたい。ズバり、最近の生活を踏まえて言うならば、HSLPなどのchallengingな授業や課題を終えた後であろう。HSLPというのは、ネットでも調べれば出てくるとは思うが、うちの大学で行われている健康科学分野でのリーダーシップを養成するプログラムのことである。

 授業はすべて英語で執り行われ、ヘルスケア政策に関わる倫理的・経済的・政治的問題についても触れる。

 高校まで多少なりとも英語に得意な意識を持っていた自分が恥ずかしいくらい、周りのレベルが高い。これは以前の記録でも記した通りだ。一番に感じるのは、語彙の差であろうけれど。

 そして、よくよく帰国子女の喋っている英語を聞いてみると、30%くらいは情報として不要なのだ。It's gonna be a little confusing, but~みたいな具合で。内容を日本語に訳してみると、普段から我々が話し合っているようなことの範疇にあることが分かる。

 前々から感じていたことではあるが、英語で話すときになんとなくIQが低くなっているのではないかと。それは確かにその通り。だって、語彙が限られているのだから話せる内容についても幼稚園児レベルのものになってしまうだろうから。

 でも、意外にそのレベルが低すぎるということもないのだ。英語で話しているようなことを、いざ日本語で話し合おうとしても、あまりその内容が変わらないなんてことはよくある。

 要は何が言いたいのか、いやそもそも要は~なんて言ってまとめる必要はないのかもしれない。結論は出すべきではないという教えを守るなら。

 まあとにかく、今は英語で話すということで精一杯で、論理的にものを考えることが難しくなっているように思うのだ。だから、言語関係なくlogicalに考えられるようになりたいと思う。それを英語に起こせばよいだけ…なのだがね。

 

 本当は別のことを書こうと思っていたのだが、彼女づきあいの話が急に脳裏をよぎってしまったので書いておこう。なるべく思ったことをそのままに書いていこうと思う。

 そう、最近高校時代の友達に会う機会が増えた。今までも、会おうと思えば会えたのだが、自分が過剰にコロナウイルスに罹患することを恐れていたために、それを控えていたのだ。しかし、最近罹患したため、現在は抗体がそれなりにあるだろうとたかをくくって、不要不急の外出をしているというわけだ。まあなんと安直な話なのだろうとは思う。そろそろシャドーイングがあるので、控えなければならないようだね。

 まあそんなことはどうでもよくて、その高校の友達にやたらと彼女が出来ているのだ。しかも彼らは俺と同じ浪人していた人間で、大学に入ってからもたったの半年しか経っていないのにも関わらずだ。

 

 彼らに共通するのは、性格面においてどこかしらの難があるということだ。とても失礼なことを言っている自覚しかない。というか、これまでの人生で自分の求める理想的な性格の人間に巡り合ったことはない。

 

 いや、そもそも自分にとっての理想の性格とは何なのだろうか。

 最近彼女を作ろうと思えば作れると言っている彼のように、論理的に考えることを非常に得意としていて本当に頭が良いと思える一方で、プライドは高いけど優しさもある、けど結局何を考えているのか全く分からない人間は理想的なのでしょうか。

 それとも、大学の同級生の彼のように、一見物静かで人間づきあいが苦手そうな彼だが、いざ接してみるとユーモアがあって優しいし頭も良い、そんな人間が理想的なのだろうか。

 はたまた、私のように、真面目そうでさらにはコミュニケーションがかなり上手く人当たりの良いいわゆる優しい人間が理想的なのだろうか。

 多分だけど、自分にとっての理想は自分の性格に近い人。でも、理想的な性格の人間を好きになるかどうかは分からない。

 自分と同じタイプの人間なら、自分と思考回路も似ているし、自分がしたことに対するリアクションも想定できるからこそ余計に気を遣ってしまうような気がしてしまうのだ。

 根本が似ていて、(例えば真面目であることとか)そこからの方向性が少し異なる人間同士の方が結局はお互いにない部分を補完しあう形で、お互いに仲良くなれるのではないかと思う。

 話は逸れたが、とにかく彼らには彼女がいて、自分はなんだか遅れをとっているように見えるなぁと思い始めている。どうしてだろうか。

 彼女の必要性を徐々に感じ始めてきている。それは将来のためである。結婚を見据えての話だ。まさか自分がこんなことを言い出すとは思ってもいなかった。

 結婚を本当にしたいのだろうか。その目的は?どういう人生を送りたいのか?そんなの今は分かるわけがない。

 でも、性欲という本能的な要因と、寂しさに耐えられないというこれもまた本能的な要因なのか感情的なものなのか分からないが、それが結婚という形で結びつくのかもしれない。

 結婚をするにしても、自分にとって良いと思える女性を探す必要がある。見極める力をつけるために、女性についてのある程度の知見が必要なわけで、そのために彼女というものを作ることによって共に過ごす時間を増やし、知っていこうというわけである。

 だから自分は遅れをとっていて、劣等感を多少は感じている、、、ということになるのかもしれない。

 

 かもしれないというのは、本当のところよく分かっていないからだ。自分には恋愛以外にもしなければならないことはたくさんある、と思っている。

 今、恋愛なんかにかまけて大切なことを失っていも良いのかと思っている自分がいる。

 でもそんな思考も、厳しい視点で考えれば、恋愛に割く時間など彼女がいてもそんなに多くはないのだから彼女は作ってしまえばよいではないかということになる。だから、作れるなら作ればいいじゃないか。彼女を作らない言い訳をする必要など全くないように思われる。

 いざこう書いてみるととても悔しいななんだか。でも、こういう覚醒した思考は必要だ。

 とにかくこれについては、日々自分を磨いて頑張ろう。

 

 さて、今どうしてこんなにとめどなく文章がかけているのだろう。

 それはおそらく、興奮状態にあるから。HSLPを終えてね。

 こういうのを終えると、何がかかってきても問題ないように錯覚する。どんなチャレンジでも乗り越えられるのではないかと。でもそれは本当に錯覚で、タスクが終了したことによる喜びで興奮してるだけなのだ。

 でも、とにかく自信がつくのは確かだ。こういう場に限らない。自分が何が出来るとき。例えばJazz研究会にいるときなんかは、自分は出来る方なのでそれなりに偉そうにリラックスして楽しむことが出来る。演奏も自分の力を効率よく覚醒させながら出来ているような気がしている。

 そういう自信こそが、自分を委縮させて発揮できる能力を限界まで絞り出す大きな原因になっているように思う。

 それが養えれば良いが、それは英語力がつき次第になるだろうから、まずは単語帳をやりましょうというのが一つ導き出される結論になるんだろうね。

 

 えー、あとは話が変わってタスクのことかな。

 自分は何かをやろうとするときに、すぐにリスクを考えてしまう。例えば、何か一つの課題をやろうとしても、他のやらなければならない課題のことを考えてしまって辛くなり、結局どちらにも取り組むことなく現実逃避を始めてしまうか。

 あるいは、自分がやると決めた課題が終わるまで他の課題に着手したくないなどの気持ちもある。

 これはなるべく変えた方が良い。効率化するためにだ。

 カレンダーやメモにやるべきことをリスト化することしか私にはできない。が、これはとても有用である。浪人時代はやることが決まっていたからラクだった。でも今は違う。一週間たてば、全く違うことをしているのだ。

 

 今日の自己分析はこんなところだろうか。最近は取れるところではなるべくリーダーシップをとっていこうと思っているので、とにかくアクティブにね。

 小学生自体の、昔の自分のように戻れるか。

 

 できるさ、きっと。

心に穴が空いた

 私は今まで、挫折感を味わわないように人生を歩んできたのかもしれない。

 

 医者の息子に生まれたからなんとなく医者になろうとか思ってレールに乗っかって。

 塾にも行かせてもらって、いい大学にも入って。これに感謝してる自分を偉いと思って。

 でも、そんな自分だからこその穴があることに気が付かないフリをしてきた。

 

 大学に入ってから、その穴が私の前で見え隠れしている。穴が最近大きくなってきているような気がするのだ。

 私はただ、受験勉強ができるだけの人間だったのかと。本当にそればかりに時間を費やす。否、受験勉強と現実逃避の繰り返しばかり行ってきたばかりに、大切な教養・自分の意見を言う能力を失ってきているように思うのだ。

 受験勉強を押し付けられてきたと勝手に感じていたからこうなっていたのだろう。レールに乗っかっているからこう感じているのだろう。

 

 今日、自分と大学の生徒間での大きな乖離があることを見せつけられる事態があったのだ。

 英語でdiscussionをするというもので、今回はインフレについての議論を15分行った。

 テーマを初めて見たとき、なぜかそこには冷静になっている自分がいた。焦りを通り越していたからなのか、もう諦めの感情があったからなのかはもう覚えていない。

 自分には教養がないものだとばかり思っていたが、それはその通りであったのだ。

 まずはインフレとは何なのか。物価が上昇することで、経済が停滞してしまうこと。ここまではなんとなくは知っていたが、詳細までは分からない。円高がどうとか、雇用がどうとか。円高円安?こんな問題、医系の話を少し知っているくらいの一般人には分かるはずもなかった。通常は、これくらいは分かるものなのだろうか。分からない。

 もちろん教養が必要とされているのは分かるが、そんなことを言われても自分には大学の課題があるし、いずれなんとかなるだろうと思ってなにもしない、というのがいつものことだ。自主的になにか一つの学問を習得するという人間は尊敬に値する。

 私が尊敬している人間の一人に、同級生の子がいる。その子は、以前に行われた英語のdiscussionの際に、私と同じようなトラウマを抱えたらしいが、私なんかと比べて本当に優秀なのだ。確かに英語は私よりも劣るかもしれないが、それ以上に中身がしっかりしている子なのだ。彼も多分、もっと準備していればトラウマを抱えることはなかったのだろうなと思うと、悲しくなる。私はどこまでいっても無能なのだなと。中身がない、思考停止している人間なのだ。これはシステムに対しての不満だが、topicの準備時間が極端に短いように思う。どうしてこんな…

 

 とにかく、インフレについての議論を英語で交わしたのだ。始まる前からおかしいと思っていた。あれ?何かがおかしい。

 英語だからこそ、日本語よりは内容は適当で良いという自分の中にだけ存在する風潮を勝手に適用しようと思っていたら、全くうまくいかない。

 インフレの原因は何なのか?俺には分からない。分からないなりも、調べたことを話そうと思った。ここで自分の性格上問題が発生する。

 みんなが先に各々喋りだしてしまうのだ。いつもそうだ。自分は残されている。誰かに遠慮している。そこには誰もいないのに。そんな自分は優しいとかなんとか言って結論づけて。

 仕方がないから、人件費の高騰を挙げた。しかしそれも司会風の子に一刀両断される。

 確認したいのだが、人件費の高騰はインフレの原因ではないのか?人件費が高騰すれば、その分会社で割けるお金が少なくなる。ゆえに、経済の回りが鈍くなる。

 これに対して、司会風の子は「人件費が高騰すれば、それはそれで雇われている側の人間が儲かるのだから経済は回るでしょう」と言ってきた。

 その時は圧倒されて何も言えなかったが、必ずしもそうとは言い切れないように思う。人件費というのは会社の予算の中でも大きな値を占めている。およそ40%~60%である。これを会社の経営が使うのか、労働者1人1人が使うのか。どちらが経済を効果的に回すのかなんて分からないだろう。

 まあそれにしても、他の子がどんどん意見を出していくのだ。指をくわえてみていることしかできなかった。 

 

 次に、インフレの解消法について議論した。これもまたみんなが一般論を言うばかりだから、私は残弾の会社ネタをかました。しかしこれも不発…なんかもう泣けてくるよな。

 なんか君は会社の話をしてるんだね(苦笑)と言われました。そうだね、そうなるね。

 まあそれは皆が他のネタを奪っていくからなんですよね、ええ。とか言ってないと自分を保てないような気がした。自分の引き出しの少なさが嫌になった。

 

 とまあこんな具合で終始私がいないかのように、穏やかに議論は進行した。私は多分議論からズレていた。

 

 

 そしてここまで愚痴を書いていて思う。なんと無駄な時間なのだろうと。私はコスパの悪い人間だと。

 ここまで愚痴を書いていても、そこから得た教訓などものの1日で忘れてしまうほど愚かな人間なのだ。

 Twitterを見ていてもそうだ。挫折感を言葉にしている投稿は見られるが、そのアカウントをよく見ているとあまり知性を感じないとか。よくあるのだ。

 一時的にとても感傷的になるが、本当に一時的なものであるなと思うわけだ。

 

 こんなんでいいのか?時折自分に問いかけることがある。

 決まって出てくる答えは、「まあそれでもいいんじゃない?それが君の良いところだよ」

 嗚呼、思考停止なのだろうか。

 

 悔しいと思ったら行動する。それを恥ずかしい・面倒だと思わないことだ。

 まあ、君には多分無理だ。あきらめろ。

 

 

 

 昨日は昨日で、日本語で議論というか雑談する授業があった。大学院生の大人の方とも話したのだが、多分彼は私をただのガキと思っていたのだろう。

 それはどうでもよくて、その授業で得たことがあるのだった。

 

 それは、なんでもかんでも解決策をすぐには考えないことだ。

 エスノグラフィーとか言っていたか。もとは文化人類学民俗学で使われていた調査手法なのだそう。調査と言っても、具体的な数字をとるものではなくて、個人へのインタビューや観察によって定性的に調査するといったものだ。これが最近ではビジネスにも応用されていて、顧客のニーズは何なのかを調べるうえで有効な手段になっているのだそう。

 その手法をするにしても、注意が必要。枠を定めてはならないのだ。実は医療においてもカウンセリングなどはエスノグラフィーと似ている側面があるが、患者を一定の枠に定めてとらえてはならない、だろう?これと同じことを言っているわけだ。患者に寄り添うなら、バイアスを以て見てはならない。逆に、自分にどんなバイアスがかかっているのかを見ることが大切なのだ、という授業の趣旨だった。

 解決策を考えるにしても、自分が解決できることしか解決しないのだ。では、なにが解決できない問題なのか?そこに重要なものが潜んでいるような気がしてならない。

 結論はすぐに出さなくても良い。結論はいらないから、その代わりに何が問題なのかを吟味することが必要。

 

 こんな話をされた直後だったもんだから、今日の英語のdiscussionには学生を含めてとても違和感を覚えたわけだ。

 彼らは意見をとりあえず出して、それっぽい結論を出そうとする。とりあえず、(私以外の)意見は肯定しておいて、邪魔者は無視しておいて、結論を出せば15分はやり切れるだろう。そうとでも考えていたに違いない。

 ええ。確かに、今日は選考試験だったし、それは当然なのだと思う。そもそもまともに議論しようという場ではなかった。それでも私は、自分の意見があまりいいリアクションを得なかったことに対して違和感を覚えているのだ。

 自分が舌足らずだったのかもしれない。英語がへたくそだったのかもしれない。それでもなんとか受け入れてくれるような温かい雰囲気が欲しかった。疎外感を覚えると本当に恐怖を抱く。自分はそれでもいいやという自信は持てなかった。少なくともあの場では。

 

 考えすぎなのだろうか。うむ、確かに昨日の授業で取り扱った文章の筆者も考えすぎだった。

 その子も齢18にして様々な苦悩を抱えており、それが文章に赤裸々に綴られていた。やはり大学生は手に職がないから、アイデンティティーもないわけで悩むのは当然のことだ。悩む原因が、今日の私のように劣等感に思いを馳せることであっても。しかしそれは奨学金目当ての作品であるから、その真偽はどうなのかという議論の方がなぜか活発になったのだが。

 

 筆者は不登校に苦しむ妹のような存在がなくなるようにと、法学部に進んだこともあってスクールローヤーを目指す。違和感として挙げられるのは、その子は妹が救いたいので合って、妹のような存在の人間を本当に救いたいと思っているのかどうかが分からないことだ。

 斜に構えた見方かもしれないが、私はこういう見方が出来たときに生き生きとしている気がする。

 いつも自分は迎合してきているからなのだろうか。本当に情けない人間だ。大切なスキルではあると思うのだけども。

 

 そろそろ、結論に移行しようかと思う。早速自己矛盾しているな。

 今日の英語のdiscussionでは悔しい思いをしたわけだ。自分の教養のなさ、瞬時に他者に迎合する能力、英語力、他者に受け入れられなかった悔しさ。色々なものがあった。

 多分私はこの試験に合格はするだろう。というか、基本的にこの選考で落ちる人間はいないわけだが、今後このメンバーでやっていくのかと思うと先が思いやられる。

 しかしこれは私が下した決断である。将来の教養を身につけたい、英語力もついでに伸ばせるとよい、なんとかしてリーダーシップを獲得してみたい。これを得られるのがこのワークショップであるのだと考えている。

 ここで悔しい思いをしたからこそ、自分の力が伸ばせるとは思わないかね。

 そうとでも思わないとやっていけないよな。無理やりプラスの方向にもっていってまとめる。嗚呼、なんと美しい作品なのだろう。

 

 

 _______私は今、どこへ向かっているのでしょうか。

このままだと平和が危ない

 最近、流行りのアニメを一気に見てしまった。

 

 ようやっと大学生らしく、ゆっくりとした夏休みを過ごせているような気はするが、依然として自分の性格の本質は変わらないものだ。

 

 大学生になっても、夏休みの課題なるものが与えられるのだが、取り組む姿勢が高校までと同じなのだ。いや、それよりも悪化しているかもしれない。

 

 私は完璧主義ゆえに、課題が与えられてしまうと、それが終わるまでは他のことが手につかない。さらに酷いことに、完璧にできないことが分かっているからその言い訳としてギリギリまで手を付けないのだ。

 

 これが何を意味するか分かるだろうか。

 遊ぶにしても、課題のことが気がかりでモヤモヤしっぱなし。全然楽しめないのである。

 それが夏休み終わるまでずー--っと続くのである。

 

 そんなのは嫌だ。

 本当なら、前期の復習をし、英語力並びに生物の学習を進めるはずだった。その計画が課題によって阻害されてしまったのだ。

 

 私はおそらく、何も課題を与えず"自由"なる時間を与えた方が伸びるタイプなのかもしれない。

 しかし、そんな環境に身を置くことはできない。大学という機関に所属する以上、つねに課題が与えられ続け、医師になるための研鑽を積まなければならないのだから。

 浪人時代に心地よさを覚えていたのは、なんとなく自由な環境に自分があったと感じていたからなのかもしれない。

 

 後期の授業からは私はどうなっていくのだろう。

 と時折風呂の中で考える。想像してなんだか怖くなるのだ。

 

 私は後期からとある英語プログラムの授業を取ろうとしている。

 部活に加えてその授業を取ってしまうと、オーバーワークになりかねない。

 私は完璧主義だから、なんでもかんでも取ろうとしているのだろう。断捨離というのが苦手なのだろう。部屋が汚いのもそのせいだ。

 

 でも、自分はもっとレベルアップしなければならないと思っている一面もある。

 自分にはない創造力を引き出したい。もっと英会話ができるようになりたい。

 

 果たしてその野望をかなえるのに、強制力のあるプログラムに参加するのか、自分のペースで気ままに自由に進めるのかというのが難しいところだ。

 

 現時点でプログラムへの参加を検討している以上、強制されてもなお自発的に学習ができるかがカギになる。

 正直、強制力のあるものについての姿勢は、"参加はするものの、積極的には取り組まない。むしろ防御の姿勢を見せる。"というのが私にとってはよくあるパターンなのだ。

 その場において、何かミスをしないというところに焦点を当てている。そんなものは気にせず、自分の興味へ突き進んでいくという攻めの姿勢が欠如しているのだ。

 

 後期からはそういう姿勢も必要なのだ。

 

 大学に入ってから常々感じていることだが、私はいつも守りの姿勢でいる。

 誰かからどう思われるかとか、周りのみんなについていこうとか。ほんとに男らしくもないし、全然意味がない。

 

 もっと自分を解放していかなきゃ。そうでないと将来いつか破綻するような気がしてならない。

 私よ。今がその転換期なのだと思う。私に考える時間を今ここで与えてくれているのだ。

 

 後期からは、尊敬するクラスメイトの彼のように。くだらないことにも楽しく、どーんと構えて、勉強することに楽しみを覚えたい。

 

 頑張るます。

思考停止という言葉に思考停止

 どうも数学の試験は好きになれない。

 

 強迫観念があり完璧主義である自分は、いつも試験時間を気にして焦っている。このまま時間が過ぎ去って自分が問題を解くことが出来なければ自分は再試験になり、最悪の場合は留年してしまうのだと。

 

 なぜ自分はこんなにも変なところに、消極的なところに考えが及んでしまうものか。

 

 

 とにかく、今日の数学の試験の出来が最悪だったわけである。

 これについては色々と言いたいことがある。

 

 まずは教師に対して。

 作問に愛がないと感じている。愛のある作問というのは、点が取りやすいというだけでなく、その試験を解く過程で今まで習った知識を総合的に組み合わせることができるように生徒を誘導するようなものでもある。

 と個人的には思っている。

 

 まして、数学を将来あまり使わない分野に進む学生に課す試験は、なおのことそうあるべきなのではないかと思う。

 

 にもかかわらず…だ。

 

 彼は中々に難解な問を作成する。本当にこれが授業で習ったことの応用問題なのだろうか。疑問を呈せざるを得ないものばかりなのである。

 普段扱っている演習問題とのギャップが甚だしいというのも問題であると思う。

 

 さらには、彼はこのクラスに対して嫌悪感を抱いているらしく、試験中もずーっと機嫌が悪そうで、試験終了後には私たちに向かって文句を言いだす始末。

 彼の言い分は理解できるのである。痛いほどに。

 単純に、大学生にもなってクラスがずーっと五月蠅いのである。

 

 私も似たような経験をしたことがある。指揮者として吹奏楽部を指導していた時、私はあまりハキハキとした人間ではないので、中高生の彼らからは舐められ終始五月蠅いのである。

 誰かの前に立って何かを話す。演説者にとっては、聴衆の聞く態度というのが自分が講演を続けるにあたって重要な要素である。

 聴衆の一人一人は、人数に反比例するようにして"聴くことへの責任感"が薄れてしまっているような気がする。だから、なんとなくうるさくなる。

 少なくとも怒られても名指しで言われることはない。

 群衆という盾に守られているのだ。その群衆には自分も含まれているというのが面白い。自分で自分を守っているというわけではないのだが…

 

 まあとにかく、授業をする立場の人間からしても、生徒の態度というのは大事なのだ。五月蠅かったら当然やる気はなくなる。

 だから、生徒も教員に対して配慮するべきなのだと思う。将来、配慮の塊みたいな仕事をしなければならない人間ならそれもあって然るべきだ。

 

 彼の言い分は理解にたる。同情してしまうほどだ。

 

 しかし私のように真面目に受けている人間からすれば、その愚痴を聞かされるのは不愉快だし、試験中のピリついた空気がまた私のメンタルに悪影響を及ぼす。

 

 問題も難しい、先生も怖い。そんな中で自分は問題を解いていたのだ。

 なにがショックって、自分が再試験になりそうなほど悪い出来だったのと、周りの生徒がきちんと解けていたことである。

 

 先生の問題からは愛が感じられないし、実際に怒っているし、周りの生徒は自分とは違って数学ができるという疎外感を感じるし。

 今日は、なんだか人間不信にさせられてしまう、そんな一日だった。

 

 どうして世界は優しくなれないんだろう。

 配慮しない生徒もダメ、怒り散らかす教師もダメ…だとも思う。

 それは自分が正しいときの話だ。

 

 もはや、自分はそれに耐えて生きていく必要があるのかもしれない。

 自分にはやさしさしか取り柄がない。だから、それは生かしたいけれど、優しくないということに耐え抜く力も必要なのだろう。

 それをも包み込む優しさも要る。

 

 なんだかたたき起こされた気がする。ありがとう。

 

 再試験をする代わりにこんな知見を得られるだけ、良いではないか。

 

 あのね、別に再試験したって死ぬわけじゃないんだ。別に笑って生きていればいいのだ。

 他の人と違うからなんだ。他の人と比べて劣っているからなんだ。

 君は君なんだから、その現実は受け止めるしかないし、それ以上もそれ以下もない。

 他の人の目を気にするな。自分の道を行けばいいの。

 

 

 もう一つの気づきは、思考停止して勉強していたことだ。

 受験勉強しているときは、書かないと分からないという意識をもって思考停止せず"なぜ?"をいつも考えていた。

 なのに、受験が終わって大学生になってしばらく試験から離れた生活をしていると、その習慣が薄れてくるのだ。

  

 試験前になってようやく焦りだして、ちょちょっと勉強しだす。その勉強の質がとても悪かったのである。

 理系科目は特に、自分で実際に計算をして答えを出すということが大切になってくるのに、自分はそれを怠った。

 どうして…どうしてなのだろう。自分でもよく分からない。

 でも、いくら勉強しても、全然達成感が無かったのはそれを仄めかしているのだろう。

 

 これもまたいい気づきだ。

 大学の勉強も、受験勉強と重きを置くべき点は同じなんだなと気づかされた。

 受験勉強の意味が少しでもあったのだなと感じる。

 

 大学に入ってから、疲れがあるのか、自分は考えることをやめ、知人と会話していてもただただ聞き手に徹するばかりで自分から何かを発信することが無かった。

 これも思考停止の現れなのだろう。

 自分はなんと味のないつまらない人間なのだろうかと感じていたのは、思考停止の感があったからではなかろうか。

 

 

 さて、まだまだ試験は続くわけだが、現実逃避はこの辺にして今後も考えることを忘れないようにしたい。

 

 考える葦となろう。

あぁ、ごめんよ

 いっつもそうだ。俺は他人を常に気にして生きている。

 

 この前、躰道の部活で膝を痛めしばらく休まなければいけない羽目になった。

 

 欠席の連絡を入れるたびに心が痛む。

 

 そもそも文化部上がりの人間が、いきなり運動を頑張りすぎたのが愚かだったのだろうか。

 部の中でも、ビリっけつの実力なのに張り切っちゃって、やる気あるのかなと思ったらいきなり怪我してしばらくお休みだなんて。

 

 嗚呼、なんとまあ情けない。

 

 自己嫌悪に苛まれる日々が続いている。なんだか最近眠れている気もしないし、日中のパフォーマンスもかなり悪い。

 このままでは自分が壊れてしまうのではないかと少し危惧しているところだ。

 

 こういうとき、親に慰めを求めて受けて入れてもらえるのが何よりの救いになっている。

 いなくなったらどうなってしまうのだろうか。

 生きているうちに沢山失敗をして沢山慰めてもらおうではないか。

 

 親から言われたのは、とにかくマイペースでやることだ。

 もちろん、彼らは部外者であり門外漢であり部の人間とは一切関係を持っていないわけだが、だからこそ言えるのだろう。

 部での居場所がなくなるとか、なんだか気まずくなるとか、そんなことは無視して考えている。

 何よりも大切なのは、自分の身体だろうということを教えてくれているわけだ。

 

 唯一の救いは、この競技のほとんどが個人戦であるということだ。

 だったら、自分が休んだって何の迷惑にもなっていないではないか。

 

 とにかく自分にそう言い聞かせて我慢している。

 

 しかし、膝の痛みというものはどうしたらマシになるものか。

 運動部に初めて入ってから早2か月、右下膊と右足首を痛め、今は両膝が悲鳴を上げているところだ。

 膝以外は、1週間ほど休んで冷却と湿布でなんとかなったのだが、今回は中々手ごわい。

 明後日、整形外科に行ってこようと思う。

 

 まあいずれにしても、周りのことは気にせずマイペースで行こうよ。

 他の人も、多少は気にするんだろうけど、結局は自分のことが一番大事だよみんな。

 

 とにかく自分でどっしりと構えておけば大丈夫だ。自分に悔いが残らないように行動しよう。

自己分析

 大学に入って、環境が大きく変わった。

 

 今までの浪人生活は、もちろん所属が定まらないフラフラした状態ではあったが、人間関係やアクティブラーニングをすることを気にすることなしに、閉鎖的な受験勉強を楽しんでいるいわば気楽な生活だったのかもしれない。

 

 ようは、大学に入ってからはComfort Zoneからの脱却を図らなければならないのである。

 

 「自分は人と接するのが好きだ」なんて歌ってはいたが、それも蓋を開けてみれば半分は嘘なのだと分かる。

 自分は消極的なコミュニケーションが好きなわけだ。自分から話しかけに行くようなことはしない。誰かから話しかけられる、あるいは授業で強制的に話さなければならない状態にならないと口を開くことはない。

 もっと厳密にいうと、積極的コミュニケーションをする場合もないわけではない。入学後早い時期がそうだった。自分と同じ空気を感じる人、つまり内気そうで芋っぽい人を探して話しかけていたのである。

 よくよく考えてみれば、自分の友達なんてみんなそうなのではないかとも思えてきた。まず、自分よりも見た目がカッコイイ人とは友達にはなっていないような気がしている。そしてカリスマ系の人とも付き合っていない。

 自分は友達を作るときに、無意識のうちに「なんらかの領域において自分を超えることはしない人」を選別していたのかもしれない。なんとまあ欲深い人間なのだろう。これもまた防衛機制の一つなのかもしれない。いざというときに自分よりも下の人間がいると、どことなく安心するだろう?

 こんなやつが医師になれる気がしない。汚い人間だなと痛感する。

 

 勉学においてもそうだ。

 もともと自分は内気な性格である。どうしてそうなったのか。失敗を恐れてきたから、挑戦をしてきてそれに対して良い印象がなかった。あったにしても、失敗の恐怖の方が大きかった。親からの制限があって、やりたいこともあまりできなかった。親の想定内でしか生きてこられなかった。などなど様々あるのだろう。

 内気なことは人の所為にしたって仕方ない。所為にしたとて、なんの生産性もないからである。それで自分が救われるのか?内気で悩んでいる自分からは少なくとも解放されまい。

 

 これからの時代、アクティブラーニングつまり積極的な学習が求められている。

 どうして求められているのかは正直分からない。グローバル化が起こってきているのはまだ分かる。人間が豊かになるためには、国際的に協力をして何かを開発したり考えなければならない。また異文化を理解することにより新たな価値観を知り、それを普段の生活に生かすこともできるかもしれない。戦争すらもなくなるかもしれない。

 そのためにアクティブラーニングが必要だという点がひとつあるのだろうか。

 もうひとつは、自分の殻それこそcomfort zoneに籠っていないで他の人の意見を聞いたり自己主張をしたりすることでより自分を磨き上げるためというのもあるのかもしれない。

 

 ただ、これを全員に適用する必要があるのかどうかは分からない。

 十人十色で、こもりがちな人がいたっていいはずなのだ。

 Activeにいるということは、それなりの問題が発生する。

 自分が何なのか分からなくなったり、人間関係のトラブルも生まれかねない。

 

 まあそんなことを言ったって、結論はどうせ「できるうちにできることをやっておこう。そのためには今のうちから積極的になんでもやってみようよ!」という感じになるのだろうが。ほどほどが大切なのである。急にいろいろやっても仕方ないので、まずは少しずつ。初めの一歩は難しいけれど、今のうちに勇気を持ちたいところだ。

 

 

 そもそも今このブログを書いているということは、一定の心のもやもやがあるからであって、それを消化するためにカタカタしているのだ。

 箇条書きするかね。

 

 ・なんかみんな仲良くなって遊びにいってるのがすごい…自分だけなんか取り残されてるような気がしてならないのが不安なのだ。

 ・部活でもあんまり活躍できないから、内気になるわ苦笑いするわで馴染めるかが不安。

 ・みんなが遊んだりしている中で、自分が何かしているのかと言えばそうでもない。自分への不甲斐なさが大きい。いろいろ損をしているような気がする。要領が良いというのは、それだけ様々な経験を積める時間があるということだ。

 それなのに自分は、必要最低限のノルマを達成させればいいと思っている。なのにそれをギリギリまで伸ばす。結局何もしていないのだ。

 そうか、自分が面白い話が出来ないのは、そういう経験をしてこなかったからだ。興奮するような経験。自分で何かを成し遂げたという自信。全くないね。

 

 過去の経験も少ないし、それにすがっていたって面白くない。

 いったん自分をリセットしてみようではないか。君には何もないのだと。何もないからなんでも始められるということで。

 

 せいぜい頑張れ。