ぼくの脳内

ぼくの脳内を言語化してみた

総決算

 年末をこんなにもゆったりと、平穏に過ごすのは2年ぶりだ。

 

 最近なぜか悪夢をよく見るのだが、それはここ2年間の受験生活のストレスのピーク時と重なっていたからだろうか。

 今日見た夢は、なぜか共通テストを受けさせられるというものであった。地理など全く記憶にないのに、前日からどのように逆転すればよいのか分からず絶望していた。

 

 悪夢を見る原因には、受験生活がフラッシュバックしたこともあるだろう。だがそれに加えて、冬休み明けのことを考えて若干の鬱状態になっていることも否めない。

 というのも、夏休みなんかは期間が長くあまり先のことは考える必要がなかった。しかし、大学生の冬休みというのは短く、さらには少しばかりの宿題も課されているのだ。休みと言っても、完璧主義の自分にとっては課題に縛られてしまうのだ。だからしんどい。

 日を追うごとに、父親とともに、三が日までしか休めないことへの傷を舐めあっている。ようやく社会人の気持ちが分かってきた。

 

 

 さて、しばらく記憶を書きとどめることが出来なかったので、ここで一旦一年の総決算として記しておきたい。

 

 今年は自分にとってどんな年だっただろう。そもそもなぜ一年を振り返ることが大切なのだろうか。アーティストの中には、あえて過去を振り返らずに新たな音楽を作り出すものもいる。その方が以前の記憶に縛られることなく、自由気ままに生活できるかもしれない。

 しかし、振り返ることにも価値はある。自分が生きていたことを実感することもそうだし、自分が何を感じて学んだのかを言語化することで、自分の得たものをより鮮明にしていけるからだ。さらにそれを今後にどのように生かしていくのかを考えることが出来る。

 多くの哲学者が述べているように、人間はつまるところhappinessを目的に生きている。我々の数多くの行動は、結局は自己の幸せへとつながっていく。

 これもそんな今後の幸せにつながっていくと信じて書いていこうというわけだ。

 

 さて、これを踏まえたうえで2022年は自分にとってどんな年だったのか。

 ざっくり言えば、「閉じた学問から開いたまなびへの変化」だろうか。

 相変わらずかっこつけた表現がお好きなお年頃なのだが、要は受験勉強が終わって大学生活がスタートしたことによって、勉強内容ががらっと変化したということだ。

 

 受験生時代は、授業をただただ聴いては自分の中で反芻して学習していく。その過程に他者は介入していない。自分の要領のよさを試す期間だった。

 そんな生活が大学生になってから劇的に変化した。他者とのコミュニケーションの機会が増えた。お互いから学ぶ機会が増えたのだ。

 それはグループワークの増加や、自分の意見を積極的に発信する機会の増加にみられる。そこで、様々な背景の人間の考え方を感じ取り、共感したりcounter argueするのだ。

 受験生活では考えられない。もちろん、多くの理系科目は受験生活的な要素が大きい。体系化されている学問をある意味で機械的に解いていく。うちの学生は得意な学生が多いのだろうが…これも大切な要素だ。研究者になるためにも必要。自分の中でじっくりと考える力だから。

 対極的といっていいのかは分からないが、倫理的な問題などは体系化されていないものだ。それについて議論を交わすという授業はとても自分にとって刺激的である。

 

 ただし、積極的に意見を発信することが苦手な学生がとても多いように思う。

 場の空気感が凍っている場合がほとんどで、いざ話始めると大丈夫なのだ。でもそれまでがとても大変。どのようにice breakするのか。短時間だったらなおさらしんどい。

 その背景には、自我を持ってしまった大学生というのが大きく影響している。他者からの印象は無難なものにしておきたいのが物心ついた人間の心理だろう。だから何も余計なことを言わないのがラクなのだ。しかも、何かをはじめに発言した暁には、自分がリーダー格にされてしまう。さらには、全員に向けて発言させられてしまうかもしれない。

 なんとなーく私は嫌だなと思ってしまう。というのは、誰かから指摘されてしまったときにとても困るからだ。返答できなかったらどうしようとか考えてしまうのだ。

 返答できなかったら、そこまで知能が至らない人間だと恥ずかしい思いをしてしまう。

 要は、自分という存在が劣っているとか、考え方が否定されてしまうのが嫌なのだ。まとめるとね。

 

 自己というのは、常に安定していたいものだ。そこから進んで抜け出そうとする人間は中々いない。

 それでも、抜け出している人間がいる。この大学にはそんなヤツが多くいる。本当に憧れてしまう。

 しかし、私はそんな彼らには何か他に自分の中で大きな軸があるのではないかと踏んでいる。

 例えば、自分はとても英語が出来るとか、何か他のスキルで秀でているとしよう。その場合、普段の学習面で何かを否定されたとしても、自分にはその秀でているスキルがあるので、困ったらそこに逃げ込めばよいわけだ。

 倫理的な意見が不適切でボコボコにされたとしても、自分はとてもトランペットが出来るので、そちらに逃げればokという具合に。

 自分はその方面においては価値がある人間だから、まあ大丈夫だろうと思うわけである。

 仮説にすぎないが、なんとなくそんな気がしている。でも、そのスキルを身につけるためには辛い思いをしなければならない。彼らもそのスキルで秀でているにしても、もちろん世界一であるわけがない。でも、この共同体においては秀でているというわけだ。

 だったら、もうとっとと他の共同体に逃げてしまえばよいのではないか?と思ってしまう。でもそれは甘えかもしれない。というか、まだ20代なんだからボコボコにされっぱなしでもいいと思う。

 もっと大人になってからボコボコにされるのはなんだかかっこ悪いから。別にそれでも良いんだけど、一般的に年上の人間は経験をたくさん積んでいるから頼りになるという考え方が通っている。そんな人間がボコボコにされていたら、なんだか情けない。だったら、元気な若者の方が価値があるように感じられてしまう。

 

 そう、ここまででキーワードが価値とかアイデンティティだと分かる。これは人間が普遍的に求めるものだと思う。それが他者への働きかけとして現れるのが、承認欲求だったりするのかもしれない。

 

 結局愚痴ってないで、邁進しなさいということになるのだろうな…

 多分多くの努力家は、ボコボコにされて育つ。そして、他のランクが下がった共同体へと移り活躍していく…のかもしれない。

 いや、分からない。そこからさらに成長して活躍する可能性もあるか。俺はそんな気が全くしていないのだが。

 

 はい、結論へと移ります。

 なんだか文章が目的・背景から始まって本論結論という流れになるのが、とても論文っぽくて好きだなと思った。そういう論理的な考え方も、大学に入ったから少しずつ伸びていったような気がする。

 

 えーと、とにかく自分が価値ある人間になるために、今はつらい思いをしてでも他者と意見を交わしたり、自分を否定されたりして鍛えていきましょうということになりますね。

 全く面白くない結論。でもこれが出来ない人間はたくさんいる。もはやする必要がないという人間もいるだろう。

 だけど、頑張ろう。幸せのために。