ぼくの脳内

ぼくの脳内を言語化してみた

本当はこっちを卒業文集に書きたかった

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 大人になって、今まで食べられなかったもの、嫌いだったものが食べられるようになるという話はよくあることだ。なんでだろう。大人になったから?

 

 そもそも大人になるということは一体どういうことなのか。学校を卒業することなのか。それとも飲酒をすることなのか。まともな仕事に就くことなのか。

 

 例えば母親が、長男に対し、「ほら、もうお兄さんになるんだから、そんなことしないの!」と叱る光景は良くある。(まあ私は実際見たことは無いけど)

 ここでの「そんなこと」とは、常識───少なくともその母親の常識───からは逸脱した行為のことを指すのだろう。学校の中だって、そんな常識が日々暗に押し付けられ続けている。希望に満ち満ちたピカピカの一年生を待っていたのは、他の子と違うからという理由で、マジョリティーという「常識」に押しつぶされる現実である、なんてこともざらにある。結局子供は、よく分からないながらもそれに従うか、または反抗期に突入するかになる。後者の場合でも、時間の流れとともに最終的にはどこかへ落ち着くのがほとんどだろうけど。

 

 「思考停止」という言葉は、「ゆーていけるっしょ」の次くらいに諸君が好きそうな言葉だが、大人になるというのはそれも含むのではなかろうか。コーヒーが飲めるようになったというのは、その苦みについてあまり考えないようになり、むしろその苦みが良いと感じるようにまでなったとも言える。鈍感になっているとも言えるかもしれない。

 

 世間的に正しいと言われているからという理由で、それをただ何となく受け入れて、日々を暮らす。正直、なんかちょっとおかしいかなという部分を感じつつも、これが頭を動かさないし楽でいいや、なんて思っている「大人」も少なくないだろう。

 

 「そんな現実あって溜まるか」と、諸君だけでも常に反抗期で居て欲しいのである。マジョリティーが正しい、常識が正しいなんてことは、全称命題ではないのだ。それを正当化する人間に牙を向くことは、色々な物を犠牲にするかもしれないけれど、そういう反骨精神が無ければ、この日本はいずれ沈没する。

 科学分野なんかは特にそうだ。常に法則を疑い、新たなタマネギの皮を剝いていくのだ。そうやって、この世の中は豊かになるし、何より自身やその周りの環境が豊かになる。

 

 まずは、その飲んでいる黒い液体の苦みが、本当に心地よいものなのかを確かめるところから始められたい。(ちなみに私は永遠の紅茶派である。)